三重交通キャラ“性的イメージ”大炎上は全く問題ない! 「表現の自由」を長年取材したルポライターが騒動の本質を問う
攻撃的な主張の源泉
前置きが長くなったが、筆者は「女性の権利」「表現の自由」を徹底的に擁護する立場である。そう前置きした上で、最後に、彼らが「なぜこんなことをするのだろうか」を書いておこう。
筆者が長年の取材を通して感じたのは、キャラクターを批判する人・擁護する人に大差はないということだ。彼らに共通しているのは、自分の不満や鬱憤(うっぷん)を晴らすために、視界に入ってきた「しゃくに障るもの」を都合よくののしる材料にしていることだ。
彼らにとって「女性の権利」「表現の自由」は流行語やお題目でしかなく、SNSで持論を展開することで何かを成し遂げた気になっているだけだ。こうした人たちは2010年代以降に増えたと考えている。まだマンガやアニメに関する「表現の自由」に関心を持つ人が少なかった頃は、これをなぜ守る必要があるのかを他人に説明するためには、理論武装が不可欠だった。
しかし、マンガ・アニメを受け入れる人が増え、日本の将来を担う産業として期待されるようになり、流れは変わってきた。マンガ・アニメは日本の産業・文化の主流となった。ゆえに、それに便乗する政治家も登場した。彼らに投票するだけで「表現の自由」を守ったような気分を味わえるようになった。
さらに、そんな政治家がSNSで「表現の自由」を語れば、あたかも自分たちが権力者の仲間入りをしたかのように錯覚できた。キャラクターを批判する人も同様だ。「女性の権利」や「表現の自由」を主張(という名のいいっぱなし)するだけで、自分たちが巨大な勢力の一員になったような気になり、承認欲求が満たされるのだ。
自分勝手な主張や「敵」への攻撃によって、自分の不幸や挫折した人生設計が一瞬解消されるような気がする――いわば一種の「麻薬」である。昨今のキャラクターや作品をめぐる炎上騒動が大事件に発展しないのは、常識ある人なら彼らと同類であることの嫌悪感を自覚しているからだろう。
最後にシェイクスピアの翻訳家として広く知られる、福田恆存(1912~1994年)の名著『私の幸福論』から言葉を引用して、この稿を閉じたい。
「若い時の理想主義、いやこの場合はむしろ世の中を甘く見た空想ともいうべきでしょうが、ひとたびそれが敗れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐(ふくしゅう)心にすぎないのです」
キャラクターは、あなたの復讐のための道具ではない。頑張れ、三重交通。