東名と名神の“境界”は「小牧IC」だった! 名古屋IC・小牧JCT説は間違い、その歴史をたどる
次々と施行命令が出た東名ルート
国土開発縦貫自動車道建設法が制定されたものの、主要道路となる国道1号の交通量増加により、東京~名古屋間の太平洋側も輸送限界に達していた。そこで1960(昭和35)年7月、東海道幹線自動車国道建設法が公布・施行され、東名ルートが計画された。
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ここで、東名ルートを優先するか中央道ルートを優先するかという議論になった。日本の予算上の制約から、東名と中央道を同時に建設することは難しかった。そして議論しているうちに、小牧~西宮間は先に施行命令が出て、1963年7月に初区間が開通した。2年後の1965年7月には全線が開通した。
東名・中央道問題はまだ議論が続いていたが、中央道が先に構想されたこともあり、建設難易度の低い、起点の高井戸IC(東京都杉並区)から富士吉田IC(山梨県富士吉田市)まで施行命令が出された。しかし、そこから先は南アルプスの山岳地帯を通過しなければならず、工事の難航と莫大(ばくだい)な建設費のために建設は停滞した。
一方、比較的平野部の多い東名ルートは次々と施行命令が出た。最初の区間が開通したのは中央道から約4か月後の1968年4月だったが、全線が開通したのは約1年後の1969年5月だった。東名の最初の区間は、岡崎IC(愛知県岡崎市)から「小牧IC」までの愛知県区間を含む数区間が同時に開通し、名神の「小牧IC」と接続したことで、東名・名神の境界となった。
「小牧IC」は東名・名神の歴史を語る上で欠かせないポイントであり、現在も東名・名神の境界として存在している。ちなみに、「小牧IC」を過ぎると、東京方面への上り線には「ここから東名」、大阪方面への下り線には「ここから名神」の看板がある。ぜひチェックしてみてほしい。