長宗我部元親はなぜ四国をほぼ統一できたのか? 石高低くも資材輸出、外貨を稼ぎまくった歴史をたどる
コメの生産力低かった土佐
戦国時代、土佐(高知県)から勢力を伸ばしていった長宗我部元親は、四国全土をほぼ統一した。しかし、土佐はコメの生産力が低く、その面では恵まれた土地とはいえなかった。
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元親の進撃を支えた経済力の源となったのは、現代風に表現すれば、コメ以外の地元の産物の「輸出」による「外貨獲得」だった。特に当時の「建設ラッシュ」にのった「資材輸出」が大きく貢献した。元親の経済力の源泉を見ていこう。
長宗我部氏は、古代の有力な渡来民族「秦(はた)」氏の子孫と称している。そもそも、秦氏は秦(しん)の始皇帝の子孫、弓月君(ゆづきのきみ)が日本に渡来したのが始まりといわれている。山城国葛野郡(現在の京都市右京区)を本拠として、“はた”が布地を織る機(はた)にも通ずることから明らかなように、養蚕・機織り関係に従事する者が多く、広隆寺を創建したことでも知られる秦河勝(かわかつ)などを出している。
長宗我部氏は、この秦河勝から出たとする伝承もあり、また、蘇我(そが)氏に仕えた「宗我」氏の出とする説もあり、古い頃のことはよく分かっていない。もっとも、当の長宗我部氏では秦氏出自説を信じていたようで、初代とされる能俊が土佐に入り、初めて居住したのが長岡郡の宗部郷(現在の高知県南国市岡豊)だったことで、長岡郡の「長」と宗部を結んで長宗我部を称したといわれている。
応仁・文明の乱のころ、土佐守護だった細川氏が上洛(じょうらく)続きで領国を顧みられなくなっている間隙(かんげき)をついて勢力を伸ばし、「土佐七族」の一人にカウントされるに至った。
長宗我部氏の勢力が急速に拡大したのが元親のときで、戦国大名化に成功している。元親は1569(永禄12)年に安芸氏を滅ぼし、1574(天正2)年には一条氏を土佐から追放し、土佐一国の平定に成功したばかりか、その余勢をかって、阿波(徳島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)に兵を進め、1582年には、ほぼ四国全土の統一を成し遂げるまでになっている。