中国偵察気球より「風船おじさん」を思い出せ! 平成初期・太平洋横断への飽くなき情熱、冷めた令和人こそ再注目だ

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1992年11月23日、冒険者を自称する鈴木嘉和氏が、滋賀県の琵琶湖畔からゴンドラを付けた風船で米国を目指して飛び立った。覚えているだろうか。

あえなく大田区の民家に不時着

大田区大森西7丁目(画像:(C)Google)
大田区大森西7丁目(画像:(C)Google)

 しかし、九十九里浜は遠かった。上昇後間もなく重りの15kgの砂袋が切れて落下したことで、予定していた高度400mをはるかに超えて5000m以上に達してしまった。

 そこでこれ以上は無理と判断した鈴木氏は、風船の凍り付いたロープをライターの炎で焼き切って数を減らし、大田区大森西7丁目の民家の民家上空に不時着した。風船のロープは2階の屋根にひっかかり、鈴木氏は宙づりになった。驚いた民家の住民に鈴木氏は、こういった。

「ハサミを貸してくれませんか」

 大失敗にも拘わらず、鈴木氏は諦めていなかった。むしろ、計画はより壮大なものになっていった。事件から2か月後の6月に、鈴木氏は同志社大学の講演に登壇している。これは、同大の三輪茂雄工学部教授が和紙を使った風船を飛ばす計画を立てていることを知ったからだった。三輪教授はネバダ州の鳴き砂の山保護を訴えていた。

 鈴木氏は講演で、風船で米国を目指す計画を明らかにした。計画では2.5mの風船16個を使ってゴンドラを浮かばせ高度1万mまで上昇するものだった。この高度に達すればジェット気流に乗って時速約280kmとなり、約40時間で到達できるとしていた。酸素はボンベで確保、耐寒服を着込むなど周到な準備を行うとしていた。

 無謀な冒険かと思いきや、当時は成功するかもしれないと見る向きもあった。この年の8月19日、『毎日新聞』が朝刊で島根県仁摩町(現大田市)の砂の博物館「仁摩サンドミュージアム」広場から9月12日に飛び立つことが決まったと報じている。

 風船の飛行は飛行機の航路に影響が及ぶため、鈴木氏は事前に日米の当局に飛行許可の申請を行っていた。結果、連邦航空局からは飛行許可を得ており、運輸省からも得られる見込みで出発日を決めていた。

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