なぜ豊臣秀吉はわずか6日で「中国大返し」を敢行できたのか? 2万5000の大軍、1日55kmを大疾走

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豊臣秀吉の天下取りへの大きなきっかけとなった「中国大返し」は、短期間で大軍を移動させた成功例として有名だ。その成功にはきちんとした理由がある。

兵糧と軍資金、将兵に分配

姫路城(画像:Merkmal編集部)
姫路城(画像:Merkmal編集部)

 その日のうちに備前の沼城(岡山市)に到着し、翌7日早朝、沼城を出発。その日の深夜に播磨の姫路城(兵庫県姫路市)に入った。一日で55kmを走った計算である。このスピードは驚異的であった。というのは、当時、大軍を移動するのに、普通は一日で20 kmがせいぜいだったからである。

 しかも、秀吉は、その姫路城ですごいことをやっている。何と、姫路城に蓄えてあった兵糧米8万5000石と軍資金の金800枚、銀750貫文を将兵たちに分配したのである。将兵たちの士気鼓舞を狙ったものだが、秀吉としては、明智光秀を倒せば、兵糧も金銀もすぐ手に入ると考えたのだろう。まだ織田政権を継ぐことができるかどうかは未知数の段階で、そのあたりの決断は見事というしかない。

 その姫路で面白いエピソードが伝わっている。秀吉が「9日早朝出陣」と触れさせたところ真言宗の祈祷(きとう)僧が秀吉のところにやってきて、「9日は二度と帰ることのできない悪日(あくじつ)にあたるので、出陣は延期した方がいい」と言ってきた。それを聞いた秀吉は「二度と帰ることができないというのはむしろ吉日である」と言って取り合わなかったという。秀吉としては、光秀との一戦に賭けており、勝てば天下を取ることができるかもしれないので、「呪術に頼ってはいられない」という思いもあるし、「一日でも早く出発を」との考えもあったのであろう。

 そして、9日から再び「中国大返し」が始まった。翌々11日の午後、摂津の尼崎(兵庫県尼崎市)に到着する。姫路から尼崎までは約80 kmである。その距離を2日半ほどで走破した計算で、これもやはり通常のペースより、かなり速いスピードであった。

 ついに12日の夜、摂津の富田(とんだ)(大阪府高槻市)に着いた。約180 kmの行程をわずか6日間で走り抜けたことになり、しかも、2万5000という大軍の移動だ。秀吉の数ある戦功の一つにカウントされ、「中国大返し」として今日に語り伝えられることとなった。

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