なぜ豊臣秀吉はわずか6日で「中国大返し」を敢行できたのか? 2万5000の大軍、1日55kmを大疾走
豊臣秀吉の天下取りへの大きなきっかけとなった「中国大返し」は、短期間で大軍を移動させた成功例として有名だ。その成功にはきちんとした理由がある。
信長のため山陽道整備

では、他の武将がまねできない驚異的ともいうべき猛スピードが可能だったのは、どうしてだったのだろうか。ひとつは、すでに述べたように、将兵たちに金品を配り、士気を鼓舞したことが挙げられるが、もうひとつ理由があった。それは、秀吉が事前に山陽道を整備し、要所要所に、現在のマラソン大会の給水所にあたるようなものをつくっていたことだ。
実は、本能寺の変がなければ、信長自身が備中高松城近くまで来る予定だったのである。秀吉のことなので、「信長さまが楽々と通れるように」と、事前に、各所に接待所のようなものを用意していたと思われ、備中高松から富田まで戻るのに、それをうまく使ったと考えられる。
よく、「秀吉があんなに早く戻ってくるのはおかしい。秀吉が本能寺の変の黒幕ではないか」といわれることがあるが、それはない。あくまで、信長のためにつくったものを自分が利用しただけだったのである。
なお、秀吉は「中国大返し」の途中で、光秀側に属しそうな武将に対し、味方になるよう誘っている。その誘いに乗って高山右近や中川清秀など、光秀与力と思われる武将が秀吉方となり、13日の山崎の戦いで秀吉軍は光秀軍を破った。
ともあれ、「中国大返し」がなければ、秀吉が勝てたかどうか分からなかった。事前に準備(山陽道などの整備)していたものをうまく活用し、さらに士気を鼓舞するための決断をためらわなかった秀吉。秀吉の天下取りにとって「中国大返し」は決定的な意味を持ったといえるし、現代に生きるわれわれも学ぶところが多そうである。