いくつ知っている? 首都圏から消えた「モノレール」と知られざるその裏事情とは

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国内のモノレールはわずか11路線のみ。しかし昭和後期~平成の首都圏には、他にもモノレール路線が存在した。今回は、そうした“消えたモノレール”について解説する。

世紀末に消えた機関車ルーツのモノレール

1970年頃の地図。モノレールが記されている(画像:国土地理院)
1970年頃の地図。モノレールが記されている(画像:国土地理院)

●向ヶ丘遊園モノレール線(小田急電鉄)
 三つ目の“消えたモノレール”も遊園地に付随したものだ。神奈川県川崎市で2002年まで営業していた小田急電鉄系の遊園地・向ヶ丘遊園の歴史は、横浜ドリームランドやよみうりランドより古い。1927(昭和2)年4月、小田原急行鉄道・小田原線(現・小田急・小田原線)の開通と同時に開業している。

 最寄りの小田急・稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)から遊園地前までは当初、別途で鉄道路線が敷かれ、小型の機関車、通称“豆汽車”が走っていた。その後、豆汽車は“豆電車”と呼ばれる電車にチェンジする。その豆電車は1965年に廃止され、代わる存在として1966年4月に向ヶ丘遊園駅と向ヶ丘遊園正門駅の間に向ヶ丘遊園モノレールが生まれたのだ(事業種別は鉄道)。

 同モノレールには、跨座式に含まれる「ロッキード式」が用いられた。これは、アメリカ合衆国の航空機メーカー・ロッキード社が開発した方式を、日本ロッキード・モノレール社が実用化したもの。鉄のレール上をゴム製ではなく鉄製の車輪で走行するのが特徴だった。

 ところが、ロッキード式はまったく普及しなかった。世界で採用したのは向ヶ丘遊園モノレールと、姫路市営モノレール(1966年開業)だけだったのだ。そして、ロッキードがモノレール事業から徹底したため、日本ロッキード・モノレールも1970年に解散。向ヶ丘遊園モノレールは部品の供給源を失ってしまう。姫路市営モノレールは1974年に休止となるが、小田急はメンテナンスと部品の製造を独自に行いモノレールの運行を続行した。

 ところが、1983年に東京ディズニーランドがオープンすると、首都圏の他の遊園地の多くは集客面で大きなダメージを被る。向ヶ丘遊園も例外ではなく、必然的にモノレールの利用者も減ることになった。

 それでも、粘り強く運行されていた向ヶ丘遊園モノレールだが、21世紀の到来を待たず、2000(平成12)年に休止が決まる。老朽化による安全面での問題が発覚したからだ。その後、再開のめどが立たないまま、2001年2月に廃止に。それから約1年後の2002年3月末、向ヶ丘遊園自体も閉園となった。

 さて、最後にもうひとつ、廃止されることなく現在、長期の休止状態にある首都圏のモノレールについても触れておきたい。

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