スパイクタイヤを廃止せよ! 80年代の仙台を襲った「粉じん被害」と戦った市民・新聞の軌跡をご存じか
スタッドレスタイヤの台頭、そして消滅

そんなアイデアのなかで特に際立っていたのが、「生活体系を見直す」というものだった。
降雪地帯では本来、雪に埋もれることを前提とした生活様式が営まれていた。ところが都市化とともに、春や夏と変わらない生活ができるようになった。結果、車を使ってどこでも移動できるようになり、粉じん公害を助長していていた。
そこで、市民は冬場に車で出掛けることを止め、自宅周辺からあまり動かずに春を待つ生活に回帰するというわけだ。単に外出を規制するだけではなく、雪が積もった日は休日にして、市民には自宅周辺や大通りの雪かきに参加してもらう――という意見もセットだった。
むちゃな提案のように見えるが、当時の仙台市では町内ごとにラジオ体操が実施されたり、毎朝ウオーキングを呼びかける「歩け歩け運動」、毎月の「まちぐるみ清掃日」など、町内会単位の市民参加型行事が盛んに奨励されたりしていた。なお、仙台市は現在でも町内会加入率が90%を超える。そのため、市民全員による雪かきも非現実的というわけではなかった。
このようにさまざまな論争を生んだスパイクタイヤだが、
・スタッドレスタイヤの性能が明らかになった(日本販売は、ミシュランが1982年から開始)
・粉じんが全国的な問題になった
ことを踏まえて、1990(平成2)年には「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が成立。1992年には罰則規定も施行され、一部例外を除いてはスパイクタイヤの使用が禁止されるに至った。そして法律の強制力は効果を発揮し、1992年冬、降雪地帯ではスタッドレスタイヤを求める客が殺到し、スパイクタイヤは一気に消えていった。
スパイクタイヤの廃止はかつて、非現実的と思われていた。このことは現在のさまざまな問題で見られる「現実を見ろ」といったような
「冷笑の無意味さ」
を教えてくれる。なにより、交通上の激変が一通の投書から始まったことはとても興味深い。なお『河北新報』は1983年、「スパイクタイヤ追放キャンペーン」の論陣を張り、日本新聞協会賞を受賞している。