赤字垂れ流しの北九州市営「若戸渡船」に廃止議論が一向に起きないワケ
利便性を感じない渡船

若松はかつて、筑豊炭田で産出した石炭の積出港として繁栄したが、地域の中心駅だった若松駅は現在、無人駅となっている。
商店街の規模は大きいがほぼシャッター通りで、歩く人は少ない。海沿いにはレトロな街並みがあるが、観光地としてにぎわっているわけではない。若松渡船の利用者も2017年に年間4万9800人だったのが、2020年は3万6800人と1万人以上減少している。
若松側の乗り場は駅から1km程度で、街の中心部から外れている。戸畑側は駅から徒歩5分と近いが、イオン戸畑ショッピングセンターのあるJR戸畑駅南口とは真逆で、店もほとんどない道を歩いた先に乗り場がある。日本水産が漁業を主力としていた時代には、関連施設が立ち並び、歓楽街もあったが、面影はまったくない。若戸大橋には、市の中心・小倉へ直行する路線バスも走っているが、渡船を使って小倉に向かおうとすれば、乗り換えしなければならない。どう見ても渡船に利便性を感じないが、それでも廃止を求めるような声は聞かれない。
もともと、若戸渡船は明治時代に民間で運航が始まった。1937(昭和12)年、当時の若松市と戸畑市が交互に管理者を務める組合を立ち上げて公営化。1963年に両市の合併で北九州市が生まれると、市営に移行した。
合併の1年前、1962年に若戸大橋は開通した。橋がつくられた背景には、渡船の危険性があった。1930年には渡船が転覆し、73人が死亡する事故が起きている。原因は定員超過だった。
全国で架橋を求める運動が起きるきっかけとなったのは、1954年に起きた洞爺丸事故だが、ここでもそうだった。当時の若松・戸畑の両市長が国に架橋を要望した際も、同様の理由だった。
ところが架橋が実現すると、地域から渡船の存続を求める声が強くなった。