自動車ジャーナリストは「気楽な稼業」なのか? 単なる“辛口評価”では見えないメーカーの努力! 数百億リスクを背負う現場の価値とは
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ジャーナリストの価値

『レミーのおいしいレストラン』は、フランス・パリを舞台に、ネズミのレミーが一流シェフになる夢を追う物語だ。レミーは天才シェフ・グストーに憧れ、嵐の日に家族と離ればなれになってひとりパリにたどり着く。グストーの幽霊に導かれ、レストラン《グストー》で見習いシェフのリングイニと出会う。ある日、リングイニが大事なスープを台無しにしたところにレミーが手を貸し、スープは好評を得る。この出来事をきっかけに、二人は互いの才能を補い合いながら、料理の腕を磨いていく。
レミーはリングイニを操ることで料理の技術を生かし、独自のアレンジを加えた料理を完成させる。店の評判は上がるが、料理長スキナーは冷凍食品で利益を上げようと画策する。しかしリングイニがグストーの実子であることが明らかになり、スキナーの計画は失敗に終わる。やがて、ネズミの存在が衛生局に知られ、レストラン《グストー》は閉店に追い込まれる。
それでもレミー、リングイニたちはあきらめず、新たにビストロ「ラ・ラタトゥイユ」を開業する。レミーの仲間のネズミたちも協力し、料理を続ける。料理評論家イーゴも常連となり、レミーが作った家庭料理のラタトゥイユに感動する。イーゴは自らの評論姿勢を見直し、店を高く評価する。この物語は、現場での創意工夫や努力と、評価の現実との関係を鮮明に示している。
物語に登場するイーゴの“名言”は、評論家の立場と、その背後にある苦々しい現実を示している。
「評論家とは気楽な稼業だ。危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。辛口な評論は、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。たとえ評論家にはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が、評論より意味がある」
この指摘は、自動車業界にも当てはまる。
・評論家を「自動車ジャーナリスト」に
・評論を「自動車ジャーナリズム」に
・料理人を「自動車メーカー」に
・料理を「自動車」に
置き換えれば、そのまま同じ構図が見えてくる。
「自動車ジャーナリストとは気楽な稼業だ。危険を犯すこともなく、自動車メーカーの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。辛口な自動車ジャーナリズムは、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。だが、自動車ジャーナリストには、苦々しい真実がつきまとう。たとえ自動車ジャーナリストにはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、自動車自体の方が、自動車ジャーナリズムより意味がある」
自動車ジャーナリストは新型車を評価し、市場や消費者に情報を届ける役割を担う。しかし、実際の生産や設計にともないリスクはメーカー側が負っている。自動車ジャーナリストは構造的な欠陥や潜在的なリスクを目にしても、法的・物理的な責任を直接背負うことはない。一方、メーカーは
・生産コスト
・法規制
・安全性の確保
など、複数の制約を抱えながら製品開発を進める。厳しい評価や辛口のレビューは、消費者にとって参考になるが、製品の真価や現場の努力を完全に代弁するものではない。
結局、評論家やジャーナリストの立場は気楽だが、現場のリスクや努力の重みを測ることはできない。この構図は、創意工夫や現場の苦労が評価に必ずしも反映されない現実を鮮明に示している。