女子中学生の「置き配盗難」が暴く日本社会の不信構造――他人を信じられない社会で、置き配は成立するのか?
兵庫県姫路市で起きた置き配盗難事件は、一見軽微な窃盗に見えるが、日本社会の根底にある「安心社会」と「信頼社会」という対立する秩序の問題を浮き彫りにした。制度の過渡期にある日本は、信頼を支える社会的インフラの未整備が競争力低下のリスクを招いている。
米国信頼社会の合理性

山岸氏は、日本人の多くが「まず疑ってかかる」傾向が強いことを指摘していた。それが「信頼社会」の形成を妨げている原因だと述べていた。一方で、米国のような「信頼社会」では、
「まず信じてみて、間違っていれば訂正する」
という姿勢が主流になっている。この違いは、文化的な価値観によるものではない。それぞれの社会で、何が合理的とされるか。その行動様式の違いにすぎない。要は、環境への適応の違いである。
だからこそ、変わるべきなのは人びとの性格ではない。制度と環境のほうだ。信頼できる行動が報われ、裏切りが可視化され、速やかに淘汰されるような仕組みを整える必要がある。そのうえで、子どもたちが
「信頼されるとはどういうことか」
「信頼するとは何か」
を経験を通じて学べる場を用意すべきだ。置き配という小さな制度をきっかけに、社会の未来を形づくる現実的な一歩を踏み出すことができる。
置き配は、日本社会にとっての試金石である。安心の終焉と、信頼の未成熟。そのはざまで、私たちはどんな社会を築けるのか。山岸俊男氏の遺した問いは、いまもなお、玄関先に置かれた小さな荷物の隣に、静かに横たわっている。