「バスが数分遅れた」「わがまま過ぎる」 なぜネット民は“障害者”を執拗に叩くのか? 合理的配慮が“被害者意識”にすり替わる根本理由! 三島由紀夫の言説から考える

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「弱者をいじめるべし」という三島由紀夫の逆説的な警句が、現代の公共交通やSNS上で繰り返される“偽装された弱者”論争を照らし出す。6万超の「いいね」を集めた議論は、配慮の不備に起因する遅延やクレームの構造を解きほぐし、被害者意識の肥大化が社会的分断を招く現状を浮き彫りにする。

配慮拒否が生む社会軋轢

31歳の三島。1956年
31歳の三島。1956年

 ところが現代では、この三島的な構図が、むしろ反転するかたちで現れている。つまり、

「自分は健常者として我慢している」
「周囲に配慮して生きている」

という意識から、配慮を受ける側への不満が噴き出している。

 ここでは、

「私は我慢している = 本来もっと配慮されるべき存在だ」

という被害者意識が生じている。この心理構造を敷衍(ふえん。意味や考えをより詳しく説明すること)すれば、実際に弱さを装っているのは、むしろ我慢している健常者のほうだろう。

 電車で座れなかった。少し遅延した。そうした些細な不満に対して、「自分こそが被害者だ」と訴える態度こそ、三島のいう演出された弱さにほかならない。

 ネット上には、自分は健常者だが、障がい者が乗ってきてダイヤが乱れた。これは公共性を壊しているといった趣旨の投稿が散見される。こうした発言には、自ら制度に働きかける姿勢はない。その代わり、配慮を必要とする人々を“スケープゴート”に仕立て、不満のはけ口にしている構造が透けて見える。

 この構造は店舗や行政機関へのクレーム対応にも現れている。

「自分は客だ」
「納税者だ」

という立場を振りかざし、職員や他の利用者に攻撃的な態度を取る人がいる。こうした人々は、多くの場合「自分が割を食っている」という被害者意識に動かされているのだ。

 現代社会では、被害者であることが発言権や社会的正義を正当化する論理として機能している。そのため、意図的に、あるいは無意識に被害者を演じる行動が生まれる。

 この傾向はネットによってさらに強まっている。不満を訴える各種のタグは、共感や正義感を集める“いいね”の装置として働く。そして投稿は、制度への建設的な批判ではなく、「あの人のせいで困った」という感情のはけ口に終始している。

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