「世界で一番嫌い」 マツコ・デラックスはなぜ「二子玉川」を拒絶するのか? 理想化された街に漂う“らしさ”の呪縛、再開発と多様性の葛藤を考える

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都市の魅力は単なる利便性や快適さにとどまらず、文化的・階層的な要素が複雑に絡み合う。マツコ・デラックスの発言が示すように、街の「らしさ」が人々の移動欲求に与える影響は深い。都市の再開発が進む中で、独自の価値観を持つ場所への関心が高まっている。都市と人々の関係性を再考することが、未来の都市形成の鍵となる。

二子玉川の歴史

二子玉川(画像:写真AC)
二子玉川(画像:写真AC)

 江戸時代、二子玉川は大山詣(神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社への参詣。江戸時代に人気だった)の人々が通る大山街道沿いの宿場町だった。渡し船の茶屋街としても栄えた。明治に入ると、料亭街として発展する。東京からの行楽地としても知られるようになった。

 1920年代以降、東急玉川線(玉電)の開通により住宅地化が進んだ。二子玉川園などの娯楽施設も誕生し、人口が急増した。戦後は道路の拡幅や鉄道の整備が進み、街のインフラが整っていった。

 1969(昭和44)年、日本初の郊外型ショッピングセンターともいわれる「玉川髙島屋S・C」が誕生。街の中心的な存在となる。以後、郊外型商業施設の先駆けとなり、週末には多くの人で賑わった。1980年代から2000年代初頭にかけて、駅の東口は西口に比べて発展が遅れていた。1982年、住民有志による再開発構想が立ち上がり、街全体の再整備が始まった。

 2000(平成12)年に都市計画が決定され、2005年から再開発が本格化する。2011年には大型複合施設「二子玉川ライズ」が開業。

・商業施設
・オフィス
・高層住宅
・公園

などを含む大規模プロジェクトだった。かつての静かな住宅地は、都市的な賑わいと自然が共存する街へと姿を変え、安全と清潔、利便性が揃った。

 現在、二子玉川は世田谷区の広域生活拠点として位置づけられている。下北沢や三軒茶屋と並び、魅力あるエリアとなっている。

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