「鉄道オタク」はなぜ攻撃的なのか? SNSで暴走する“ネット弁慶”たちの正体! 美しき「鉄道文化」をかき乱す承認欲求とは

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鉄道やバス、ミリタリー分野における「オタク文化」は、深い知識と情熱を生み出す一方で、批判的な議論を引き起こしやすい現代のネット環境では問題となっている。しかし、熱心なファン同士が協力し、新たなコミュニティを形成する事例も増加している。知識の共有を通じて、モビリティ業界における健全な議論がどのように生まれるのかが重要な課題となっている。

ネット上の知識が狭める世界

鉄道(画像:写真AC)
鉄道(画像:写真AC)

 このような態度は、特にローカル線問題や鉄道行政に関する議論でしばしば見受けられる。技術的な正誤とは異なり、これらの問題にはさまざまな立場や視点が存在するはずだ。それにもかかわらず、「○○の視点が欠けている」などと、一方的な見解を強調することがある。

 興味深いのは、こうした批判を繰り返す人々が、実際の行政や運営に関わっているわけではない点だ。政策決定に関与できる立場でもなく、地元の住民でもないことが多い。それでも、自分の視点が正しいと主張し、それを強引に押し付けようとすることがある。地域の実情や経営の現実については、さまざまな視点があるはずだが、そうした多様性を受け入れようとせず、持論に固執する傾向が見られる。

 こうした状況において、彼らは鉄道そのものの何を楽しんでいるのだろうか。攻撃的な発言を繰り返すことで、本来の楽しみを見失ってしまっているのではないかという疑問が浮かぶ。

 本来、知識は世界を広げ、新しい発見や出会いをもたらすものだ。しかし、インターネット上では、その知識が逆に世界を狭める手段として使われることも多く見受けられる。

 特に目立つのは、「正しい鉄道オタク」を自称する人々の態度だ。例えば、撮り鉄のマナー違反が話題になると、「SNSのせいで、基本も知らない人が増えた」という意見が出ることが多い。そして、必ずと言っていいほど、「自分は違う」と自分を差別化するコメントが加えられる。

 ここで注目すべきなのは、彼らが語る「知識」が、必ずしも車両のスペックや路線の歴史など、具体的な情報を指すわけではない点だ。むしろ、「自分こそが正しい鉄道オタクである」という、

「根拠のない優越感」

が隠れていることが多い。この意識を正当化するために「知識」という言葉が使われているに過ぎない場合がある。

 以前、あるテーマの記事を書いた際、特定のアカウントから「無知だ」と批判を受けたことがあった。その後、イベントの取材で現地を訪れた際に、

「あのアカウントはあそこにいるアイツですよ」

と教えてくれる人がいた。相手もこちらの顔を知っているはずなのに、近寄ってこなかった。まさに

「ネット弁慶」

だといえるだろう。匿名性に守られた画面の向こうでは強気な言動をするが、実際に顔を合わせると何もいえなくなる。結局、彼らの「知識」は、ネット上での自己満足のための道具として使われているのかもしれない。

 こうした人々は、どこにでも現れる。何度かSNSで偶然、自分を批判しているアカウントを見かけ、そのプロフィールを興味本位で見てみると、大学の教員になっていると書かれていたこともあった。

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