昭和の風景がよみがえる 懐かしの「行商列車」物語、激動の時代に生きた“千葉のオバさん”の一日とは
戦後も行商が増え続けたワケ

戦前、行商は路線ごとに組合が結成されるほど、活動がにぎわっていた。太平洋戦争が始まると農産物の行商は禁止され、組合は解散した。
それでも「フロシキ隊」と呼ばれる、風呂敷に商品を包んで少しずつ運ぶやりかたで行商は続いた。主な商品は米だった。風呂敷1枚で約3升(4.5kg)の米を隠し持つことができた。
戦後になると、状況は一転した。食糧難にあえぐ東京の人たちが農村を訪れ、買い出しをするようになったのだ。しかし、それでも行商は減らなかった。
買い出しをする人に売るほどの余剰がない零細農家は、地元で農産物を買い付け、積極的に行商に出ていた。そのため、京成線は1949(昭和24)年、戦時中に休止していた行商専用列車を復活させている。
当時の人気商品はヤミ米だった。明確な調査ではないが、昭和20年代後半には
・常磐線:1600人
・京成線:300人
の行商がいて、ヤミ米や野菜を運んでいたという。
食糧事情が徐々に落ち着いても、行商は増え続けた。農地改革(1946~1950年)で土地を手に入れた農民が現金収入を得る手段として、一般化した。耕地が狭かったため、手に入れた土地で生計を立てられない人も多かった。結果、行商の種類は
・自家生産型:自家生産の品を行商するいわゆる副業型
・行商献上型:自家生産品のほか、朝市等で半分くらいを補給する兼業型
・仕入れ行商型:全部を朝市で仕入れるいわゆる専業型
と、さまざまだった。
一般的に行商というと、農家が畑で収穫した野菜を売りに行くという、どこか牧歌的なイメージがある。しかし、現実はそうではなかった。
広大な土地を持ち、余剰作物を行商していた農民たちは、自分の家を建てるだけの収入を得ていた。しかし、貧しい農民たちは、自分たちが消費するだけの土地しか持たず、生活のために行商を続けた。一口に行商といっても、歴然とした格差があったのである。