「どうする家康」で注目の静岡市 実は「自転車の街」だった! 背後にあった徳川家の影響、いったいなぜなのか

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新政府に将軍職を追われた徳川慶喜は、静岡で趣味に没頭。多彩な趣味を持ち、自転車に乗ることも趣味のひとつにしていた。

徳川が生み、お茶が育てた文化

2021年に企画展「しずおか自転車ものがたり」が開催された静岡市のフェルケール博物館(画像:(C)Google)
2021年に企画展「しずおか自転車ものがたり」が開催された静岡市のフェルケール博物館(画像:(C)Google)

 競争が激しい才取りは、自転車にもこだわりを見せていた。才取りの間では、「新橋号」と呼ばれるスピードが出る自転車の評判が高く、そのほか、才取りのなかには本場ヨーロッパから自転車を取り寄せるほどの猛者もいた。レース仕様の下向きハンドルの自転車を使っている才取りもいて、かなり競争は激しかったことがうかがえる。

 自転車で疾走する才取りは、一番茶が出回る4月から5月がもっとも活躍の季節だった。しかし、時代とともに交通手段や通信手段などが進化。また、商取引習慣も変化して、昭和40年代から才取りは数を減らしていった。

 静岡市の自転車文化は形を変えて継承されていく。1948(昭和23)年に競輪開催の根拠法となる自転車競技法が成立。同法は地方財政の増収を図る目的で、地方自治体に自転車競技の開催権を認める内容だった。

 同法の成立を受け、トップバッターとして福岡県小倉(現・北九州)市で競輪が初開催された。競輪は公営競技のなかで参入が容易とされたため、1949、50年の2年間で35場も競輪場が開設される。

 全国各地に競輪場をつくるのは容易だったが、問題は選手の育成だった。簡単に競輪選手は育成ができない。選手がそろわずに競輪が不開催になれば、自治体の財政にも影響が及ぶ。そんな心配から、競輪選手の引き抜き合戦も激化した。

 静岡市は1953年に戦災復興の財源を確保するという名目で、競輪開催を実施。後発組の静岡では、才取りから競輪選手へと転身する者もいた。逆に、競輪選手が副業で才取りをすることもあったという。

 静岡市の自転車文化を振り返ると、徳川が生み、地場産業のお茶が育てたといっていい。そして近年は、自治体による自転車の環境整備や利用促進も盛んになった。

 静岡市は「世界水準の自転車都市“しずおか”」を掲げ、

・「健康」の増進
・「環境」負荷の低減
・「利用」の促進
・「賑わい」の創出
・「モラル」の向上
・「プライド」の確立

からなる六つの基本目標を設定。2035年までに長期計画として、自転車都市整備にあたる。

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