「どうする家康」で注目の静岡市 実は「自転車の街」だった! 背後にあった徳川家の影響、いったいなぜなのか
県内初の専門店は1895年開業
1887(明治20)年を迎える頃、静岡では慶喜のような高貴の家柄の人間だけではなく、市井の人々も自転車を乗用するようなっていく。当時、多くの人たちは自転車を保有するのではなく、貸自転車店からレンタルしていた。
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同年、静岡は自転車が増えることを見込んで自転車税を制定。1889年に市制が施行されて静岡市が誕生した時点で、市内で課税対象となる自転車は12台あったと記録されている。
ひとり1台が当たり前になった現代から考えると、自転車の普及台数は少ないように感じるかもしれない。しかし、当時はまだ自転車を製造するメーカーも、販売する店もなかった。個人で自転車を調達・製造するしか方法がない。そうしたことを踏まえれば、現代と同じレベルで考えることはできない。
静岡県内初となる自転車専門店は1895年に静岡市でオープンした。この頃から、新聞紙上で夜間乗車に注意喚起する記事もたびたび掲載された。こうして、静岡は自転車利用が盛んな街と目されるようになった。
静岡と自転車の関係は、静岡の名産品でもあるお茶とも深く結びついて発展を遂げていく。まだ自家用車が少ない大正から昭和40年代にかけて、静岡市中心部では自転車を猛スピードで走らせる「才取り」と呼ばれる集団がいた。
才取りとは、茶の生産者から販売を委託されたセールスマンのことで、静岡駅で待機していた才取りは列車で運ばれてきた茶を受け取り、茶問屋へと持ち運んで取引のあっせんをした。つまり、才取りとは、茶農家と茶商を結びつける仲介業者のことで、多くの才取りは静岡駅で茶を受け取ると、茶問屋が多く軒を連ねる茶町まで全力疾走した。
早く着くことによって、先に商談を始める交渉権を得ることができる。そのため、才取りには自転車を走らせるスピードや体力、そして営業先できちんと茶の説明ができる知識と目利き力が必要だった。