フォードの「高級車ビジネス」が短期で頓挫した理由

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ヘンリー・フォードには、高級車ビジネスへの参入という野望があった。息子や孫に受け継がれたその野望が、頓挫した理由とは?

父の遺志継いだウィリアム・クレイ

1956年型コンチネンタル・マークII。フォードのプレミアムブランドだったリンカーンのフラッグシップでありながら、新たにコンチネンタルそのものの名を冠した製造部門を創設したことで、正式にはリンカーンが付かない車名に(画像:矢吹明紀)
1956年型コンチネンタル・マークII。フォードのプレミアムブランドだったリンカーンのフラッグシップでありながら、新たにコンチネンタルそのものの名を冠した製造部門を創設したことで、正式にはリンカーンが付かない車名に(画像:矢吹明紀)

 エドセルがいなくなり、戦後のフォードはエドセルの長男のヘンリー・フォード2世が、リンカーンはエドセルの三男のウィリアム・クレイが指揮を執ることとなる。ウィリアムは父親が亡くなる前に完成させたコンチネンタルを、父親の理想のままに復活させることを願っていた。そして新たに、最高級車専門のコンチネンタル・ディビジョンをリンカーンの中に創設し、1954年からニューモデルの開発に着手する。ウイリアム・クレイがこうした新たな高級車ビジネスに取り組んだ背景には、父親の遺志を継ぐといった心情的なこと以外に、ビジネスとして正当な理由があった。

 第2次世界大戦後のアメリカ車を語る上で極めて重要な項目に、従来は大衆車と呼ばれていたクルマが、高級車に匹敵するデザインと装備を得たことで、大きく販売台数を伸ばしたという事実があった。

 しかしクルマのつくり自体は大衆車のままであり、ある意味見栄えが良いだけのクルマに過ぎなかったのも、また事実だった。見た目に大差がないのであれば、ビジネス的に製造コストが安いに越したことはない。熟練職人による精密加工や塗装など、繊細な技術に立脚していた伝統的な高級車づくりに必須だった膨大なコストは、多くの経営者に嫌われたのである。

 時代の要請に応えた新しい「高級車」とは、「見栄えと装備が良い大衆車」に過ぎず、ウイリアム・クレイにとって、こうしたクルマは父親のエドセルが理想とした本質的な高級車とは相いれないモノに思えた。そこで彼はコンチネンタルを戦前のままの「真の高級車」として復活させることを決心したのである。

 ウイリアム・クレイの自信作、コンチネンタル・マークIIは1956年モデルとしてデビューを飾った。当時は折しも、ゼネラルモーターズ(GM)の生え抜きデザイナー、ハーレー・アールがプレゼンテーションを行い、大人気を博したテールフィンときらびやかなクロムトリムが市場を席巻していた。

 ところがコンチネンタルのニューモデルは、そのどちらも無縁だった。飾り気のないシンプルなラインと端正なマスク。そしてシックでフォーマルな装い。コンチネンタル・マークIIは、その製造過程のすべてにおいて熟練職人の手が入り、さらにそれぞれの個体を一人の専任品質管理責任者が管理するという、戦前の高級車製造そのままの手法で組み上げられた。ここで目指したのは、見た目の派手さに左右されない本質的な高品質である。

 しかし、その志の高さとは裏腹に、販売成績は伸びなかった。年間2500台と計算された採算ポイントに対して、1956年と1957年の2年間の生産台数は、それぞれ1307台と442台。1957年の販売台数は事実上の1956年の売れ残りである。コンチネンタル・マークIIの販売価格は、当時の標準的な大衆車が2000ドル前後だったのに対して、1万ドルに達していたが、一台売るごとに1000ドルの赤字が生じていたとも言われている。

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