赤字ローカル線はなぜ簡単に廃止できないのか? その裏にある「国防」「有事」という非情な現実
瀬戸大橋の設計も軍事念頭

軍事利用への期待から、急ピッチで建設が進んだ路線もある。戦時下に開通した、山陽本線の関門鉄道トンネルだ(下り線が1942年、上り線が1944年)。1936(昭和11)年の起工式から、工事は当時最新鋭のシールド工法を使って急ピッチで進んだ。その背景には、安定した輸送を求めた軍の後押しがあった。
もともと、計画は陸軍内で練られていた、弾丸列車で東京~ベルリン間を結ぶ大陸横断鉄道構想を反映していた。構想では青函トンネルも計画され、地質調査も検討されていたのだった。
戦後の交通インフラでも、軍事を念頭に置いて設計されたものがある。
例えば、岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋(1988年全線開通)は、橋桁の高さが65mに設定されている。これは橋梁を検討した中央港湾審議会が海上自衛隊の意見を参考にして、報告書に盛り込んだことに由来している。
また、自衛隊の第14旅団の戦車中隊は岡山県の日本原駐屯地に置かれ、四国有事の際、瀬戸大橋を渡って移動することになっていた(現在は第15即応機動連隊機動戦闘車隊に増強改編され、善通寺駐屯地へ移駐)。
青函トンネルは軍事上の重要施設

このように、軍事と交通インフラは切り離せないが、中でも最も重要なのが青函トンネルだ。
青函トンネルは開通時点から一貫して、軍事上の重要施設として認識されている。開業前の1988(昭和63)年2月に、外国報道機関に向けたトンネル公開が行われているが、この際、JRに対して
「共産圏、特にソ連には見せるな」
という要請があったため、海底駅には停車せず、通過するだけの公開となった。
もともと、青函トンネル建設は採算面から疑問視する向きもあったが、それでも実施に至ったのは防衛上必要で、有事を念頭に置いて建設されたからだった。統合幕僚会議議長を務めた栗栖(くりす)弘臣は、当時のメディアの取材で
「終戦直前、米軍の攻撃を受けた青函連絡船12隻が、わずか2日間で全滅した記憶は生々しい。その点、トンネルは核爆発にも耐えられる」
と青函トンネルの丈夫さを語っている。なお、水中に設置された核機雷でも耐えられるかどうかがメディアで真面目に語られていた。