鉄道会社は現代人の「豊かさ」「幸せ」に根深く関与している 我々はなぜそれに気付かないのか

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幸せや、豊かさ。私たちの生活の満足度を決めるこうした価値観は、いかにして形作られてきたのか。そこには鉄道会社の存在が、切っても切り離せないものとして横たわっている。

ターゲットは行楽客からファミリー層へ

かつての日本の家庭のイメージ(画像:写真AC)
かつての日本の家庭のイメージ(画像:写真AC)

 そんな1920年代頃から、日本の電鉄の多角経営には新たな特徴が形成されたといえる。その方向性を一言でいえば、宝塚のキャッチフレーズ「清く正しく美しく」となるだろう。

 1910年代までの電鉄は、とりわけ都市間を結んでいない箕有電軌に顕著だったが、沿線の社寺をはじめとした郊外への行楽客が主なターゲットであった。郊外住宅地を売り出したといっても、この時期には新中間層はまだ少なく、したがって郊外に住む通勤客も少なかった。労働者は市内の路面電車か徒歩で仕事先に向かっていた。

 そんな時代の電鉄が呼ぼうとした行楽客には、成年男子がかなり多かった。郊外の社寺参詣というのは江戸時代からの行楽の定番で、近代の電車も最初は参詣客を狙っており、都市間を結ばない箕有も、沿線の社寺の多さは経営に有利な材料と見られていた。

 このような行楽地はもともと、門前町で「精進落とし」と称して遊郭が形成されたように、いささか色艶めいた場所でもあった。都市の金持ちが愛人を連れて遊びにいくようなところだったのである。

 箕有も初期は誘客に、芸者を集めたイベントをしていた。宝塚の少女歌劇は最初から女子どもを意識していたが、実は男性のまなざしも集めていたようである。中島らもがこう語っている。

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 ぼくの親父が大正一ケタ生まれで、宝塚に狂ったように見に行ってたらしいんですよ。その話をあとから聞いて、けっこうロマンチックなとこあったんだなあって言ったら「そんなもん女の脚見に行ったに決まっとるやないか」って(笑)

(「荒唐無稽に命かけます! 対談 山田風太郎・中島らも」)

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 そんな色艶めいた行楽が、1910年代後半頃から「健全」なものへと次第に変化していった(内実はともかく健全さを前面に打ち出すようになった)という。

 まさにその「健全」は、芸者と遊ぶ男の楽しみではなく、マイホーム主義的な幸福と言えよう。そのマイホーム的幸福像こそ、1920年代に層をなした新中間層が求めていた生活モデルに合致し、そして今も私たちの幸福像を規定しているのである。

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