鉄道運賃「変動制」に 失われる公共交通の「大義名分」、独占企業と国の行方とは
話題となっている鉄道の「変動運賃制」。公共交通は単に利益をあげるための存在ではない、といった前提はどこへいったのか。
公共交通と独占企業

中間とりまとめでは、
「社会経済情勢の変化に機動的・弾力的に対応する運賃の改定が困難となっている」
といった言葉で、制度・システムの双方で運賃を変えにくい現状を、あたかも問題のごとく記しているが、そう簡単に運賃が機動的・弾力的に変わっては困る。
運賃格差の正当性をめぐっては、1984(昭和59)年に当時の国鉄が地方交通線(ローカル線)の運賃を幹線より10%高い運賃とした問題がある。このとき、和歌山線沿線の住民は
「公正妥当の原則」
を掲げた国鉄運賃法1条、憲法14条(法の下の平等)に反し、国民に保証されている「交通権」が侵害されていると主張し、差額分運賃の返還を求め提訴した。
この裁判は国鉄分割民営化後も続き、1991(平成3)年に最高裁は
「運賃は鉄道利用の対価の性質を持っており、等距離でも路線によって差が生じることは許される。国鉄再建法でも格差運賃を認めている。格差の幅も国鉄の裁量の範囲」
と原告の主張を認めなかった。
また交通権についても
「交通権を仮に具体的権利として認めると、山あいや離島の住民にも同等の交通手段を同等の運賃で提供しなければならない法的義務が国家に課せられることになり、非現実的」
としている。
中間とりまとめにしても、JR東日本にしても、こうした過去の事例を知った上で、今回の方針を打ち出しているはずだ。当然、「運賃が不公平になる」という批判に反論できるロジックを用意しているのだろう。
鉄道会社という独占企業が料金を柔軟に決めることを、国が容認するという不合理さ――。そんなことに向けて、着々と既成事実を積み上げていくのは、どう見てもおかしいだろう。
「公共交通は単に利益をあげるための存在ではない」
という前提は、もはや失われているといっても過言ではない。