初詣は「日本の伝統」じゃない! 実は、鉄道会社がつくり上げたものだった

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初詣は鉄道会社がつくり上げた「伝統」だった。その背景には一体どのような思惑があったのか。

鉄道会社に都合の悪かった恵方詣

現在の川崎大師周辺の地図と明治初期の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
現在の川崎大師周辺の地図と明治初期の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 鉄道会社も恵方の年には恵方詣の宣伝をして参詣客を集めようとしていたが、5年に1度か2度しか回ってこない恵方詣では鉄道会社にとっては都合の悪いものだった。そこで、鉄道会社が目をつけたのが明治になって登場した初詣という言葉である。鉄道会社は、恵方でない年であっても初詣という言葉を使って宣伝を始めた。

 成田鉄道は1910(明治43)年の正月を迎えるにあたって「成田山初詣」の広告を新聞に掲載し、1912年からは京浜電鉄が毎年正月に川崎大師参詣の広告を出すようになる。当初は、恵方詣ではない年に使われていた初詣という言葉だったが、次第に恵方詣を駆逐して正月の風物詩となっていくのである。

 先ほど紹介した初詣の人出ランキングの中にある成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷、住吉大社、熱田神宮は、いずれも複数の鉄道がアクセスしている。この複数の鉄道による競争が、初詣というイベントをさらに盛り上げた。

 川崎大師では1899年に関東最初の電気鉄道である大師電鉄が開業し、官鉄川崎停車場近くの六郷橋と川崎大師を結ぶようになった。この大師電鉄は社名を京浜電気鉄道と改称し、1904年に品川(八ツ山)~川崎(現・京急川崎)~大師間を全通させた。

 当時は日露戦争が行われており、戦費調達のための通行税の導入に伴って官鉄は運賃を値上げしたが、京浜電鉄は逆に値下げをし、川崎大師と穴守稲荷を回れる巡回券を売り出した。この結果、1905年の正月には多くの乗客を集めたのである。

 一方、翌年には官鉄も対抗する。1906年の元日には新橋~川崎の往復運賃を5割引するという対抗策を打った。この後も京浜電鉄と官鉄の競争は続くが、競争がエスカレートするほど川崎大師の正月の参詣客は増えることになった。

 成田山新勝寺に関しても、やはり複数の鉄道の競争が参詣客の増加をもたらした。東京から成田への鉄道は1897年に総武鉄道(佐倉経由の路線)が全通し、1901年には成田鉄道(我孫子経由の路線)が全通した。

 どちらも距離的には同じようなものであったが、成田鉄道が日本鉄道経由で乗り換えなしで成田に行けると宣伝すると、総武鉄道もこれに対抗して臨時列車を走らせ、成田山新勝寺への参詣客は増加していった。

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