御茶ノ水が「80年代初頭」まで原宿より断然イケてた理由――自由と集中が生んだ都市文化とは

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1970年代、御茶ノ水は“日本のカルチエ・ラタン”と呼ばれた。学生運動の熱が街を覆い、昼の文化が芽吹いた時代だ。1974年の女性大学進学率はわずか11.6%。それでも語学や芸術を学ぶ女性たちが街を彩り、原宿より早く“おしゃれの発酵”が始まっていた。昼に熟す都市文化の原点が、そこにあった。

夜8時に閉じる街が生んだ独自カルチャー

御茶ノ水エリア(画像:写真AC)
御茶ノ水エリア(画像:写真AC)

 前述のとおり、アテネ・フランセ、御茶の水美術学院、池坊お茶の水学院、東京写真専門学校など、芸術・語学・表現系の学校が集中したことで、

「大学とは異なる若者層」

がこの街に形成された。しかし、このエリアを特徴づけたのは教育機関の質だけではない。文教地区であるために、夜の商業要素は極端に抑制されていたことだ。

 駅前にパチンコ店が一軒ある程度で、ほとんどの店は20時に閉まった。酒場のにぎわいもなく、酔客が道にあふれることもない。街に滞在すること自体が「昼の活動」と結びついていた。これは六本木や原宿のように、夜間経済が文化を支える街とは異なる構造だった。

 1979年の『週刊プレイボーイ』現地ルポには、

「思わずふりかえりたくなるようなセンスのいいカワイコちゃんがあふれている。若くてキュートなお茶の水ガールは推定4000人。原宿や六本木にたむろしている女の子は今やイモ同然」

などと記されている。そこに描かれる女性像は、“夜に遊ぶ”のではなく“昼に学ぶ・見せる・歩く”文化をまとった存在だった。都市文化は必ずしも夜に成長するとは限らない──それを示した稀な事例だといえる。

 飲食店の閉店時間が街の滞在行動を決め、結果として日中に文化が“発酵”する都市が成立した。夜型カルチャーを持たなかったことが、むしろ強い選別機能として作用し、街の空気を落ち着かせ、濃度を高めていった。

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