御茶ノ水が「80年代初頭」まで原宿より断然イケてた理由――自由と集中が生んだ都市文化とは

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1970年代、御茶ノ水は“日本のカルチエ・ラタン”と呼ばれた。学生運動の熱が街を覆い、昼の文化が芽吹いた時代だ。1974年の女性大学進学率はわずか11.6%。それでも語学や芸術を学ぶ女性たちが街を彩り、原宿より早く“おしゃれの発酵”が始まっていた。昼に熟す都市文化の原点が、そこにあった。

学問と信仰が交わる文化の磁場

御茶ノ水エリア(画像:写真AC)
御茶ノ水エリア(画像:写真AC)

 御茶ノ水駅前の明大通り周辺は、日本最大規模の楽器店街として知られる。1935(昭和10)年創業の谷口楽器が1941年に明大横へ移転したことを皮切りに、戦後は下倉楽器が進駐軍の払い下げ楽器を扱い発展。うたごえ運動、フォーク、エレキ、ヴィジュアル系などの音楽潮流とともに街は変化してきた。近年ではアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の聖地としても注目を集める。

 神田神保町方面へ下ると、スポーツ用品店や古書店街が連なり、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂などの宗教施設も立地する。学問・信仰・出版・音楽が重なり合うことで、御茶ノ水は独自の「文化ゾーン」を形成してきた。とりわけ神田カレーグランプリや老舗喫茶群に象徴されるように、食文化の層も厚い。

 バブル期には地価が1平方メートルあたり2200万円に達し「日本一高い街」となったが、現在は約550万円前後に落ち着く。それでも全国で2番目の高水準を維持しており、都心の経済的中枢としての位置を保っている。

 しかし、この街が「学問の街」という枠を超え、原宿や六本木と並ぶ“若者カルチャーの拠点”へ変わりかけた時期があったことはあまり知られていない。それが、戦後の学生運動がピークを迎えた1970年代初頭である。当時の御茶ノ水はまさに「日本のカルチエ・ラタン」と呼ばれた。フランス・パリの学究地区に重ね合わせ、思想と表現が交錯する都市空間とみなされたからだ。

 1968年のフランス「五月革命」の影響が波及し、神田・御茶ノ水エリアでも「日本のカルチエ・ラタンにせよ」を合言葉に学生運動が拡大した。記録映像には、学生が大学の机や椅子を道路に運び出し、バリケードを築いて機動隊と衝突する様子が残されている。街路そのものが政治と思想の攻防線になった時代だった。

 この熱量は政治の表現だけではなかった。集団で社会と向き合うという行為そのものが、都市に新しいリアリティを与えた。学生が街を占拠したことで、場所は“見る”ものから“使う”ものに変わり、大学は境界線を失い、屋外が思想表現の舞台になった。こうした空間意識の変化が、その後の若者文化の受け皿にもなる都市感覚を育てていった。

 熱気が急速にしぼむのは1974年ごろで、その後の御茶ノ水は再び落ち着いた学生街へ戻っていく。しかし、あの短い時期に可視化された「都市が若者によって再編される現象」は、その後のカルチャーの生成を理解するうえで欠かせない要素だ。御茶ノ水はただ学生運動が“あった街”ではなく、都市と若者が一体化して発熱した、数少ない東京の場所だった。

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