「現代 = 誰もが移動できる」は幻想だ――過剰包摂社会に埋もれる“交通弱者”の声を聞け

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2025年、日本の交通はLCCやMaaSの普及で利便性が向上し、一見「誰もが自由に移動できる」社会が実現したように見える。しかし、地方の高齢者や低所得者は公共交通の縮小やデジタル格差に直面し、移動の自由を奪われている。こうした見えにくい格差は居住や就労、投票といった基本権利にも影響し、政治課題として浮上しにくい現状がある。移動格差は社会の分断を深め、民主主義の基盤を揺るがす危険性を孕んでいる。

移動困難者の声なき消失

モビリティ(画像:写真AC)
モビリティ(画像:写真AC)

 都市の若者も地方の高齢者も、スマホを持ち、似た服を着て同じ電車に乗り、SNSを利用しているように「見える」。この「見える」ことこそが、現代の包摂社会の最大の罠である。

 実際には、車を持てず買い物に困る人や、通勤に4時間以上かける人、経済的にLCCや高速バス以外を選べない人、公共交通の廃止に直面する郊外の高齢者など、移動の自由を持たない層が存在する。こうした人々の存在は、社会意識のなかで次第に

「ノイズ」

として処理されていく。

 不可視化が進むほど、交通問題は技術や効率性の議論にすり替わる。結果、移動に困難を抱える人々の声は政治に届かず、格差が固定化されていく。これはやがて民主主義の基盤を揺るがしかねない。

 移動は人間の基本的権利である。その前提が揺らげば、社会の包摂性も危うくなる。いま必要なのは、移動できるように見える社会ではなく、

「本当に移動できる社会」

への冷静な問い直しである。

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