「現代 = 誰もが移動できる」は幻想だ――過剰包摂社会に埋もれる“交通弱者”の声を聞け
表層的平等が生む移動格差

現代社会では、移動が商品として平準化されている。LCCは地方空港から成田や関空までの安価な移動を実現し、新幹線は快適な車内と共通サービスによって均一な移動体験を演出する。交通系ICカードも全国に広がり、SuicaやPASMOが標準的な移動インフラとして定着した。
これらの仕組みは、移動を均質な体験としてパッケージ化し、利便性と安心感を与えているように見える。しかし、それは表層的なインターフェースにすぎない。実際の移動には、時間、空間、経済状況といった制約が複雑に絡み、個々の体験は大きく異なる。
同じ飛行機や電車に乗っていても、
・移動の動機
・費用負担
・拘束時間
・身体的負荷
・精神的ストレス
は利用者ごとにばらついている。外見上の平等が、内実の格差を覆い隠している。
新幹線のグランクラスと自由席を比較すれば、その差は明確だ。グランクラスでは指定席や軽食、接遇サービスが提供される。一方、自由席では混雑や立ち乗りを強いられることも多く、同じ列車内に「経験の格差」が存在している。
また、出発点や到達点の条件も無視できない。都心の駅近マンションと、1日3本の路線バスを経由しなければ駅にたどり着けない地方の集落とでは、
「移動の意味そのもの」
が異なる。制度上は誰もが移動可能であっても、現実には生活環境や費用構造が分断を生み出している。その分断が、あたかも存在しないかのように扱われる。これこそが過剰包摂の本質である。
地方に目を向ければ、日常の移動を自家用車に依存せざるを得ない地域が多い。公共交通は縮小し、高齢者にとって運転免許の返納は生活手段の喪失を意味する。
一方、都市部では「車を持たない」ことが合理的な選択とされている。交通網が密に整備された都市では、車の保有は負担と見なされる。この価値観の非対称性もまた、見えにくい断層を形成している。
このように、「誰でも自由に移動できる」社会の裏側では、移動の自由を奪われた層が静かに周縁化されている。しかしその声は、制度や政策の中で不可視化され、政治的な争点になりにくい構造がある。