琵琶湖の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

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琵琶湖大橋の開通から60年、湖西地域の発展を支えた交通インフラとしての役割は顕著だ。しかし、今なお新たな架橋計画は進まず、現行インフラで十分とされる背景にはどのような理由があるのか。湖の水運から近代交通網まで、地域発展の裏側に迫る。

湖西地域の所得格差と停滞

近江大橋(画像:写真AC)
近江大橋(画像:写真AC)

『滋賀年鑑』1962(昭和37)年版に掲載された1958年の県内地域の所得差から、当時の地域格差が鮮明に浮かび上がる。全県平均を100とした場合、各地域の数値は次のとおりだ。

・湖南:118.7
・湖東:86.9
・湖北:101.1
・湖西:76.5

これらの数値からも明らかなように、湖西地域は大きく停滞していた。1964年に国立国会図書館調査及び立法考査局が作成した『地域開発の課題と方法(調査資料;63-7)』には、地域の実情が次のように記録されている。

「この地域の就業人口の60%はいまなお農民である。(中略)第一種兼業37%、第二種兼業にいたっては30%しかない。この数字によっても、この地域が工業化からとりのこされていることがわかろう。従って湖西地域の生産所得構成は、第一次産業が50%であるのに対し、第二次産業は15%にとどまる」

 高度経済成長期において、工業化による所得向上は国家的な優先課題だった。この背景の中、交通の障壁となっていた琵琶湖に橋を架け、アクセスを改善することで湖西地域の工業化を促進するという構想が浮上した。

 これを受け、戦後、滋賀県内では架橋を求める運動が活発化した。事業主体を巡る議論はあったが、架橋地点については現在の琵琶湖大橋がある場所に一貫して計画が進められた。この地点が選ばれた理由は単純で、琵琶湖の東西を結ぶ最短ルートであり、水面幅が最も狭い場所だったからである。

 とはいえ、「狭い」といっても橋の長さは1350mにも及び、1994(平成6)年に4車線化された新橋の最長部分は1400mに達した。現代の長大橋建設が進んでいる時代とはいえ、当時としては、北九州市の若戸大橋(627m、1962年完成)をはるかに上回る画期的な長大橋プロジェクトだったのである。

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