琵琶湖の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

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琵琶湖大橋の開通から60年、湖西地域の発展を支えた交通インフラとしての役割は顕著だ。しかし、今なお新たな架橋計画は進まず、現行インフラで十分とされる背景にはどのような理由があるのか。湖の水運から近代交通網まで、地域発展の裏側に迫る。

交通インフラ集中の地域格差

琵琶湖大橋(画像:写真AC)
琵琶湖大橋(画像:写真AC)

 琵琶湖の水深や技術的課題を考慮しなかったとしても、東西に橋を架けることは現実的ではなかった。その理由は、琵琶湖の水運が持つ独特の性質にある。近代以前、琵琶湖の水運は盛んだったが、それは単純に東西の港を結ぶものではなかった。

『万葉集』に「八十の湊」と詠まれた琵琶湖の港の多くは、大津と密接に結びついていた。大津は京都へ物資を運ぶ中継拠点であり、各地の港から集められた物産がここに集約される仕組みだった。

 琵琶湖には大小約460の河川が流れ込み、これらの水路を通じて運ばれた物資が大津で陸揚げされ、京都へと送られる流通ネットワークが確立されていた。つまり、琵琶湖の交通は

「南北(各港から大津へ)」

の流れが主体であり、湖を横断する東西交通の必要性は低かったのだ。

 琵琶湖の東西を結ぶ交通の重要性が高まったのは、近代以降、とりわけ戦後になってからである。その背景にはいくつかの要因がある。明治期には汽船の登場で一時的に湖上交通が活況を呈したが、1889(明治22)年に東海道本線が全通すると、輸送の主役は鉄道へと移行した。その後の道路整備の進展により、湖上交通はさらに衰退していく。

 問題は、新たな交通インフラの整備が一部地域に集中したことだった。これにより、滋賀県内の地域発展に大きな格差が生じる。特に水運の衰退によって湖西地域は著しく停滞し、県内の発展は極めて不均衡なものとなった。

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