琵琶湖の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
琵琶湖大橋の開通から60年、湖西地域の発展を支えた交通インフラとしての役割は顕著だ。しかし、今なお新たな架橋計画は進まず、現行インフラで十分とされる背景にはどのような理由があるのか。湖の水運から近代交通網まで、地域発展の裏側に迫る。
琵琶湖横断運河構想の栄光と挫折

琵琶湖大橋の建設と同時期、さらに野心的な交通インフラ構想が進められていた。それが
「日本横断運河」
計画である。この計画は、当時としては画期的なものであり、中京方面から揖斐川を経由し、運河を開削して琵琶湖に接続。さらに琵琶湖から敦賀湾まで運河を通し、3万t級の大型船が航行できるという壮大なビジョンが描かれていた。1964(昭和39)年1月、日本横断運河建設促進期成同盟会の広報誌『横断運河』第10号では、当時の滋賀県知事・谷口久次郎氏が
「この時に今日話題を呼んでいる琵琶湖に通じる日本横断運河が計画されたことは誠に意義あるところであります」
と記し、琵琶湖大橋と並ぶ一大プロジェクトとして熱意を示していた。
この運河計画は、日本の物流を根本から変える可能性を秘めており、実現間近とも思われた。しかし、計画の中心人物である自民党の重鎮・大野伴睦氏が1970年に急死すると、計画は求心力を失い始める。さらに1970年代に石油ショックが起こり、海運不況が訪れると、大規模な港湾や運河建設にかかる巨額の費用の経済的合理性に疑問が呈されるようになった。加えて、環境保全意識の高まりも影響し、この壮大な計画は徐々に勢いを失い、最終的には歴史の中に埋もれていった。
そして、21世紀に入って浮上した注目すべき架橋構想がある。それは琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島・沖島(近江八幡市)と対岸を結ぶ橋の計画である。2012(平成24)年、離島振興法の改正を契機に沖島の将来像についての議論が活発化し、そのなかで島と対岸を橋で結ぶ案が検討された。この計画では、沖島と伊崎半島を結ぶ約1.4kmの橋が構想され、技術的には実現可能とされた。しかし、この興味深い架橋構想も、現時点では実現には至っていない。