「女性の性被害が多い」 SNSで話題の「東京・水元公園」は本当に危険なのか? 葛飾区の治安データから読み解く、SNSの危うさと真実とは
水害対策から生まれた公園の歴史
さて、SNSを用いた悪意の拡散で話題となった水元公園だが、実際は魅力あふれる公園だ。23区最大の敷地内には、高さ20mにも達する200本のポプラ並木や約1800本のメタセコイアが生い茂り、都立公園で最大の森が形成されている。広い面積を生かして、バーベキュー広場やドッグラン、キャンプ場なども整備されている。
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埼玉県との県境にある23区の外れに、なぜこんな大規模な公園が整備されたのだろうか。現在の水元公園があるエリアは、江戸時代に水害対策として開発された場所だ。1729(享保14)年、幕府は現在の東水元6丁目付近で、江戸川に流れ込む古利根川の支流をせき止める工事を計画した。この工事の目的は、支流を遊水池にして洪水被害を防ぐことだった。
完成した遊水池は「小合溜井(現在は小合溜)」と名付けられ、平時には下流の地域に水を供給する役割も果たした。現在の水元公園の水面部分はこの遊水池であり、公園前のバス停から入り口の土手までを「内溜」、水元公園内を「外溜」と呼ぶ。現在でも遊水池の機能が残っているため、小合溜は公園の管理区域ではなく、葛飾区が管理する準用河川となっている。
その後、小合溜は1930(昭和5)年に旧都市計画法に基づく「江戸川風致地区」に指定され、自然環境を保護するための取り組みが始まった。このとき、
・洗足
・善福寺
・石神井
なども同時に指定された。1940年には「水元緑地」として都市計画が進められ、公園として整備されることになった。この計画は紀元2600年記念事業の一環で、防空緑地としても指定されたため、急速に進められた。
しかし、土地の買収は行われたものの、公園としての整備は戦争の影響で中断され、買収した土地は農耕地として解放されてしまった。戦後の1946年には、既に買収した土地の約76haが耕作者に払い下げられたため、水元公園の一部は、買収した土地を再度買い直すという複雑な経緯を経て完成したのだ。
1957年には再び都市計画が決まり、水元公園という名称が正式に定められ、1965年に公園は開園した。その後、1969年には埼玉県に関する部分が都市計画から除外され、以降は東京都の都市計画公園として整備されることとなった。近年も施設の再整備や拡張が行われており、23区最大規模の公園としての魅力がさらに増している。