北海道と本州の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
カーフェリー依存の現状

日本列島を結ぶ道路網には、交通インフラやネットワークにおいて、必要な接続が欠けている「ミッシングリンク」が存在する。
四国と九州は、鉄道と道路の両方で本州とつながっているが、北海道と本州の間には
「鉄道専用の青函トンネル」
しかない。そのため、自動車で渡るには今もカーフェリーを利用しなければならない。
国土開発が進んだ時期に、なぜ津軽海峡だけが道路での接続を果たせなかったのか。この点について、今回はその歴史を検証していく。
古くから存在した構想

津軽海峡を橋やトンネルで接続する構想は、古くから存在している。1991(平成3)年には、建設省の「海峡横断道路プロジェクト技術調査委員会」が設置され、津軽海峡は
・東京湾口
・伊勢湾口
・紀淡海峡
・豊予海峡
と並んで「検討対象」となった。また、1993年には北海道経済同友会が津軽海峡からサハリンまでを橋やトンネルで接続する構想を提唱した。そのなかで、津軽半島・竜飛岬から松前半島・白神岬を通るルート、あるいは下北半島・大間崎から函館湾・汐首岬を通るルートに架橋する
「津軽海峡大橋」
の構想が登場した。
この計画に特に熱心だったのは青森県で、1995年に青森県知事に当選した木村守男氏が主導した。木村氏のもとで青森県は、1997年の長期総合計画において津軽海峡大橋の実現を重点施策として提唱し、1998年には「津軽海峡軸構想推進のためのプロジェクトチーム」を発足させた。
青森県の狙いは、津軽海峡地域を環日本海圏と環太平洋圏を結ぶ戦略的拠点として整備することだった。具体的には、津軽海峡大橋を中心に
・下北・津軽半島大橋の建設
・高速道路/新幹線の延伸
・国際空港/港湾の整備
を進めることを目指していた。この計画には、北海道側も賛同し、架橋実現に向けた草の根の活動が盛り上がっていた。