JR東日本は鉄道会社なのに、なぜ「発電所」を持っているのか?
鉄道省の抵抗
この電力国家管理は、厳密には第1次電力国家管理と呼ぶべきものであった。その内容は、有力な火力発電所と送電線は、新たに設けられる国策会社・日本発送電に強制出資させられ、主要な水力発電所は所有権はそのままに日発が管理するというものであった。強制出資というところがミソで、国が国債を発行して買収することなく電力業を管理することができるという、国に都合のいい案だったのである。
こうして、民営の電鉄でそれなりの規模の火力発電所を持っていた阪神や南海は、それを日発に強制出資させられて、発電所を失うことになってしまった。当然、日発としては、鉄道省の持っている火力発電所も自己の所有となるよう、出資を働きかけたのである。
しかし鉄道省はこの要求を拒否した。鉄道省の発電所はあくまで自家発電設備であり、一般の電力とは一線を画していると主張したのである。こうして鉄道省は川崎火力を守り、信濃川発電所も日発の管理下に置かれることはなかった。ざっと200kmもの送電線を持つ、当時としては大規模な出力約17万kW級の発電所が、果たして自家用の範囲に収まるのか、日発ならずとも疑問には感じられるが、鉄道省は譲らなかった。
ともあれ1939(昭和14)年4月に日本発送電は事業を開始し、電力国策は実現したかに見えた。ところがこの年の夏は大渇水で水力発電が思うように稼働せず、夏場でも火力発電に頼らざるを得なくなった。おまけに日中戦争は泥沼化し、物資や労働力の不足が激しくなって、火力発電の石炭も質量ともに足りなくなった。電力国家管理を実現した革新官僚は石炭調達に奔走したが、ついに電気の使用制限を需要家に要求せざるを得なくなってしまう。当然、電力国家管理を失敗と詰まる声が高まった。
電力国家管理に従わなかった理由
しかし鳴り物入りで始めた政策を逆戻りさせる選択肢は、革新官僚にはなかった。そこで1941年から第2次電力国家管理が実施されることになる。これは既存の電力会社の所有権が残っていた大規模水力発電所も日発の所有とし、既存の電気事業者は地域ごとに設けられる配電会社に統合されて、すべて姿を消すこととなった。
電鉄会社が兼業で営んでいた沿線での電気事業も配電会社に統合されて消滅し、大都市で路面電車と市内の電気事業を営んでいた市営電気局も電気事業を失って交通局と名前を変えた。
そして今度こそ日発は、鉄道省の発電所も手に収めようとし、第2次国家管理を推し進めた村田省蔵逓相も
「鉄道省関係を自家用と見なして、従来通り存続せしめたいとする意見もあるようだが、電気を最も有效に使用する上からいえば、これを日本発送電に合同せしむるのが当然の措置である」
と発表した 。実際、日発や配電会社は市営や県営の電気事業のみならず、国が恐慌で打撃を受けた東北地方のために設立した東北振興電力も吸収しているのである。だが今度も鉄道省は激しく抵抗し、やはり信濃川と川崎の発電所を守り抜いたのであった。
なぜ鉄道省は電力国家管理に従わなかったのだろうか。民間や公営の企業がすべて国策会社に統合されたというのに、当のお国の事業が統合されなかったのである。誰でもすぐ思いつくのは、いったんそのお役所の縄張りとなったものは、容易なことでは手放さないということである。それはもちろんあっただろう。ほかに考えられることとしては、鉄道省という役所があまり革新的風潮に乗っていなかったということがある。
昭和恐慌に際しても、鉄道省はむしろ経営努力によって収入を維持しようとしており、実際それはある程度うまくいったといえそうだ(国鉄は昭和恐慌でも赤字に転落しなかった)。