JR東日本は鉄道会社なのに、なぜ「発電所」を持っているのか?
戦後恐慌と計画の行方
ところが大戦景気は1920年に崩壊して、日本は一転して戦後恐慌に陥ってしまう。この年に鉄道省の信濃川の発電所計画は、11万kWあまりの規模に拡大して議会に提出されるが、これは諸事情から議会では認められなかった。
その後は関東大震災もあり、信濃川の発電所計画はしばらく棚上げになってしまう。しかし東京の拡大は続いており、省線の需要も伸びていたことから、1923年に出力1万8000kWの赤羽火力発電所が建設された。
信濃川の発電所計画が再び日の目を見たのは1926年で、発電所の出力はさらに16万7060kWへと拡大され、いよいよ着工されるかと思われた。しかしこの計画は、時の民政党内閣が金本位制復帰のために緊縮政策を取ったこと、そして民間電力会社から強く反発されたこともあって先延ばしになってしまう。
当時の電力業界は、大戦恐慌以来の不況が続く一方、大戦バブル期に計画された水力発電所が次々と完成して、電力の過剰が問題となっていたのである。
しかし鉄道省は、電力自給をあきらめなかった。水力発電所が棚上げされたのに代わり、出力5万kWの火力発電所を建設したのである。これが1930(昭和5)年に運転開始した川崎発電所であった(1926年に矢口発電所は廃止されていた)。これは水力発電所を見据えたものでもあった。
戦前の水力発電所にダム式は少なく、川の水をそのまま水路に導いて発電する単純な水路式が多かった。そのため「発電量 ≒ 川の流量」となる。すると夏に雨の多い日本では、夏はたくさん発電できるが、冬は発電できる電気が減ってしまう。それを補うために、冬場に火力発電をたくことが当時は多かったのである。そのため水力発電所とコンビになる火力発電所が必要だったのであった。
戦時下の動乱
10年以上の回り道を経て、信濃川水力発電所は1931(昭和6)年にようやく今度こそ着工された。第1期工事の落成は1939年までかかった。こうして鉄道省念願の首都圏の電力自給が実現したのだが、それでめでたしめでたしとはならなかった。
というのも、信濃川発電所が建設されている1930年代には、世界恐慌を背景に、従来の資本主義や政党政治を否定する勢力が力を持つようになっていたのである。彼らは「革新派」と呼ばれ、陸軍の中堅層や海軍の軍縮条約反対派を中心に、政官界にも同調者を増やしていった。そしていつか来るであろう総力戦のために、満州(中国の東北地方)を支配して、日本を強力な国に作り替えようと考えていたのである。その際には従来のような企業の自由な活動よりも、統制経済で国策を推進しようと考えていた。
経済統制のやり玉に挙がったのが、産業の基盤となる電力業だった。電力業は1920年代日本のリーディング・インダストリーであり、大いに発展したが、同時に過剰な電力も抱え込んでしまった。その電力を何とかしようと、主要な電力会社は当時認められていた重複供給権を使って「電力戦」と呼ばれる顧客争奪戦を繰り返した。
これによって電力料金は下がったが、いっぽうで会社間の争いが「日本最大のけんか」と呼ばれる鶴見騒擾(そうじょう)事件を引き起こすなど、問題も生じた。また競争で大口顧客相手の電力料金が下がる一方、独占が認められていた小口の電灯料金は割高感が生まれ、消費者から値下げ運動が全国的に起こった。電力業への不満が社会的に高まっていたのである。
この不満を背景に、電力業の国家による統制をもくろむ構想が、「革新派の官僚 = 革新官僚」の間で形成されていった。1936年3月に成立した広田弘毅内閣の逓信大臣(電力の監督行政は当時、郵便や電信電話などを担当する逓信省の管轄だった。電信で電気を扱う役所だったからである)の頼母木(たのもぎ)桂吉がこの構想を取り上げ、電気事業を国営化する電力国策(と当時呼ばれた)は急速に進み始める。
頼母木大臣の電力国策は、広田内閣の崩壊で沙汰やみとなったが、1937年6月成立の第1次近衛文麿内閣で、永井柳太郎逓相が再び俎上(そじょう)に載せた。折からの日中戦争発生が後押しとなり、1938年3月電力国家管理法案が成立する。これは戦争のための統制として悪名高い国家総動員法と同時の成立であった。しかし電力国家管理は日中戦争に対応した国家総動員法と異なり、戦争前から準備されていて、むしろ来るべき総力戦に備えた国造りのための政策であったことは留意しておきたい。