JR東日本は鉄道会社なのに、なぜ「発電所」を持っているのか?
交通再編の難題
民営の鉄道は恐慌で経営が悪化し、並行線の合併などの交通調整が唱えられるようになった。首都圏ではバスやタクシーの台頭などで経営不振に陥っていた東京市電の再生策を中心に、公共交通の再編がしばしば唱えられたが、ここでネックになったのが省線電車だった。市電や省線、私鉄に地下鉄を一体の経営にする「大合同」は理念としては賛同を得たが、いざ実施するとなると総論賛成各論反対になりがちだった。
ところが興味深いことに、その議論では私鉄の経営者は、
「省線が大合同するなら我々も自分たちの事業を合同させても良い」
といったところまで意見を表明することもあったのに、鉄道省は監督官庁の論理よりも現業の論理を優先させ、省線の合同に踏み切らなかったのである。結局、第1次電力国家管理と同時の1938(昭和13)年3月に陸上交通事業調整法が成立したものの、首都圏の交通は、市内の軌道は市営に、地下鉄は営団に、私鉄は4ブロックに統合し、省線はそのままという「小合同」にとどまった。ブロック統合を求められた私鉄では、五島慶太が積極的な合併を展開していわゆる「大東急」を成立させたものの、戦後また元通りに京急・小田急・京王が再独立することになり、小合同すら貫徹されなかったのである。
逓信省主導の電力国家管理が既存の事業者をすべて消滅させる(そして戦後の再編成で9電力体制に至る)というドラスチックな変化をしたにもかかわらず、鉄道省による電車の統合が微温的にとどまったのは、おそらく監督官庁が監督業務のみを行っていたか、現業も行っていたかの違いが大きかったのであろう。
鉄道省の場合、人的にも経済的にも、監督部門より現業部門の存在感がずっと大きかった。鉄道省の現業部門はすでに1906年の鉄道国有化で圧倒的な規模となっており、その現業部門を分割するという発想にはなりにくかっただろうと考えられる。逓信省も郵便と電信電話の現業は巨大部門だったが、電力業は監督のみで現業をしてはいなかった。
鉄道省の官僚にも革新官僚はいないわけではなく、柏原兵太郎という人物が鉄道省の革新官僚として知られている。しかし柏原の専門は貨車の配車であり、第1次電力国家管理期の柏原は同じ革新官僚たちとともに石炭不足に悩む日本発送電の支援策にはかかわっていたが、公共交通の監督や統制といったところには関与していなかったようである。
日本発送電の石炭調達については、逓信省の革新官僚たちは他の役所にも協力を求め、当然石炭の最大ユーザーである鉄道省も対象となった。しかし1939年末の交渉では、30万トンの不足に対し10万トンの融通を求められた鉄道側は1万5000トンがせいぜいと答えるなど、はかばかしくは進まなかったようである 。かくして1940年には電力の使用制限が行われるに至ったのであった。
環境と歴史
戦時中に鉄道省は逓信省と合併して運輸通信省となったが、巨大すぎて戦争末期に再度分割されて運輸省が成立した(なお逓信省の管轄だった電気事業監督は、戦時中に軍需省へ移され、戦後は通産省へと移行する)。
敗戦後の1949(昭和24)年、連合国軍総司令部(GHQ)の指導によって現業部門は公共企業体の日本国有鉄道として分離し、運輸省は鉄道監督局を置いて監督に専念することとなった。信濃川と川崎の発電所も日本国有鉄道の所有となって首都圏の電気鉄道運転に働き、施設の更新や拡張も行われている。そして国鉄が分割民営化されても、引き続き鉄道の自家用としてJR東日本が発電所を引き継いだ。
近年のJR東日本は発電事業を拡大している。メガソーラーや風力発電を子会社で建設・運営し、2050年までに鉄道事業におけるCO2排出量を実質ゼロにするという目標を掲げている。その際には、信濃川水力発電所も再生可能エネルギーの柱として活用されることであろう。東日本以外のJRは発電事業を手がけてはいないようで、やはり大規模な自家用発電所を持つJR東日本ならではの事業展開といえそうである。
再生エネルギーへの投資は結構なことで、近年は環境にやさしいことが売りになっている鉄道の特長をより伸ばすことを期待したい。もっとも、その発端となったJR東日本の発電所が、国策の大義名分に逆らって鉄道の手に残されて今日に至ったことを思うと、環境問題という大義名分でその発電所が活用されるのは、なんだか妙なめぐりあわせという気がしないでもない。
●主要参考文献
鉄道省電気局編『鉄道省電気局沿革史』、1935年