“日本の航空機パイオニア”になる前に惜しくも夭逝、知られざる明治の天才「矢頭良一」をご存じか
自働算盤の誕生

今日、オフィスワークにおけるさまざまな数値計算は、コンピューターにインストールされたアプリケーションソフトや電卓によって行われている。これはどの分野でも変わらない。しかし、かつて汎用(はんよう)コンピューターが普及する前、電卓がまだ高価な機器であった1960年代までは、計算作業には算盤(そろばん)や手回しの機械式計算機が使われ、特殊な関数の計算には計算尺が使われていた。
このうち、歯車とカムを組み合わせた手回し式の機械式計算機の歴史は古く、その原理が発明されたのは17世紀のヨーロッパにさかのぼる。実用機として商品化されたのは、19世紀になってからである。なかでもアリスモメーターや、それを改良したオドネル計算機は、日常的に大量の計算を行う設計事務所や統計事務所で実用品として機能したといわれている。ちなみに、このような機械式計算機は、明治後半に限定的ではあるが日本にも輸入されたが、非常に高価であったため、中央官庁や大学、大企業以外には普及しなかった。
このような状況のなか、1903(明治36)年、まったく独創的な設計の手回し式機械式計算機が日本で特許を取得した。それが「自働算盤」である。
今回紹介する自働算盤は、1902年に日本で初めて発明された手回し式機械式計算機であり、それまで少数しか輸入されていなかった欧米製機の影響を一切受けていない独創的な機械であるという大きな特徴を持っていた。
この計算機を発明した人物の名は矢頭(やず)良一。彼は1878年に福岡県上毛(こうげ)郡で生まれ、地元の中学に進学した。しかし、地元で得られる知識には限界があったため、1894年の16歳で自主退学し、大阪に出て私塾や独学で数学、工学、外国語などを学んだが、基本的に大学などの高等教育は受けていない。
この独学の過程で、後に自働算盤となる機械式計算機の基本構造を考案したといわれている。矢頭良一が後の自働算盤の模型を完成させたのは1901年のことである。1902年には実機を完成させ、同時に特許を出願した。特許は前述のように1903年に認められた。間もなく量産が開始され、新たに設立された販売会社「矢頭商会」を通じて市場に投入された。