“日本の航空機パイオニア”になる前に惜しくも夭逝、知られざる明治の天才「矢頭良一」をご存じか
航空機開発という野望

矢頭良一の自働算盤には、いくつかの特徴があった。まず、計算の基本は10進法だが、日本で大きく発展した算盤に合わせて、入力には2/5進法を導入した。計算できる桁数は最大8桁に達し、これは当時としては異例のことであった。
さらに、乗除演算の自動桁送り、演算終了時の自動停止機能も備えていた。これらの特徴は、同時代の欧米機と比べても明らかに優れており、200台ほど生産された市販モデルは、主に陸軍省、内務省などの官公庁に販売され、好評を博した。自動算盤の販売価格は250円(現在の価値で約500万円)と非常に高価で、ほとんど官公庁の需要しか見込めなかったのも事実である。
20世紀初頭、矢頭良一は世界で最も画期的な機械式計算機を発明したが、彼の目的は計算機の実用化ではなかった。計算機を手掛けたのは、ある目的を達成するための資金集めのためだった。矢頭は動力源を持つ飛行機を自作することを目標としており、計算機を売って得た現金でまず
「航空機のエンジン」
の開発を目指した。
20世紀初頭、すでに何人かの飛行家が無動力のグライダー飛行を行っていたが、動力飛行機はまだ実用化されていなかった。しかし、動力飛行機はまだ実用化されていなかった。ウィルバーとオービルのライト兄弟による世界初の動力飛行は、くしくも矢頭が自働算盤の特許を取得した年と同じ1903年に米国のことだった。
矢頭良一は、販売した自働算盤の代金を受け取った後、当初の目的であった航空機エンジンの開発に着手した。しかし、当時の技術水準では実用機の完成は難しく、研究開発に取り組んでいた1905年、結核による胸膜炎を発症し、療養生活を余儀なくされた。
病床でも航空機への情熱は衰えなかったといわれるが、3年間の治療にもかかわらず回復することはなく、1908年に30歳の若さでこの世を去った。
現在、矢頭良一の名を知る人は限られているが、もし天寿を全うしていたら、あるいは後20年でも長生きしていたら、
「日本の航空機パイオニア」
のひとりとしてその名を残していたに違いない。
矢藤の死後、日本における最初の機械式計算機は、1923(大正12)年に大本寅次郎が開発したオドネル計算機をモデルにしたタイガー計算機である。程なくして市販化された。
タイガー計算機は高性能で、大正末期から昭和にかけて大規模な公共事業に欠かせない計算機として急速に普及した。
その後も地道な改良で信頼性はさらに高まり、電卓の代名詞的な存在であり続けたが、電卓の登場と普及によって市場から撤退。1970(昭和45)年、ついに販売終了となった。