戦後に英国メーカーと提携! 「いすゞ・ヒルマンミンクス」という、ノックダウン成功作の今も色あせぬ魅力とは
第2次世界大戦後の国産乗用車生産の歴史は、1949(昭和24)年10月に発表された乗用車生産の全面解禁から始まった。
全ての国産化が完了したのは1957年
1955(昭和30)年、本国のヒルマンミンクスがエンジンを1390ccの直列4気筒OHVに改めたことに合わせて、いすゞヒルマンもエンジンを変更した。
さらに翌1956年には新型ミンクスに準じたフルモデルチェンジを実施、ここからのモデルは、英国製をベースに、主にエンジンを中心に順次手が加えられるようになっていった。
そのきっかけとなったのは、昭和30年代初期の日本ではいまだ自家用車市場はほとんど期待できず、販売の主力はあくまでタクシーおよび法人需要がメインであったことだ。
こうした市場状況ゆえクルマの使用環境は過酷であり、主にエンジンやミッション、サスペンションといったメカニカルコンポーネンツの耐久性向上が市場から求められたのである。
ちなみに、このフルモデルチェンジの時点でエンジンの国産化は果たしていたものの、車体全体の国産化はいまだ果たせず、全ての国産化が完了したのは1957年10月のことだった。
ノックダウン生産に着手してから4年。この年月を長いと見るか短いと見るかは見解のわかれるところだが、当時の日本の基礎技術力そのものは決して低くはなく、相当に慎重に作業が進められたことはまず間違いない。
4年を掛けていすゞ自身のモノとなったヒルマンミンクスは、それを積極的に証明するかのごとく、当初は1グレードだったバリエーションを次第に拡大していった。
1958年6月には、ヒルマンのブランド誕生50周年を記念するモデルとして「ジュビリー」をリリース。このモデルは本国でも同じ名前の限定モデルがリリースされたことに合わせて投入されたものだったが、おそらく国産初の限定モデルだった。