戦後に英国メーカーと提携! 「いすゞ・ヒルマンミンクス」という、ノックダウン成功作の今も色あせぬ魅力とは
国産乗用車生産の歴史

第2次世界大戦後の国産乗用車生産の歴史は、1949(昭和24)年10月に発表された乗用車生産の全面解禁から始まった。
とはいえ、戦前には国産量産乗用車など、ダットサン以外には存在しなかった日本の自動車工業界にとって、ここから乗用車生産の歴史が始まったといっても過言ではない。
続いて1951年、それまで厳しく禁止されていた在日外国人所有の外国車の日本人への譲渡が許されるようになり、翌1952年には新車の輸入も限定的ながら許可された。
その結果、国産乗用車メーカー各社は、日本の国土にマッチした乗用車の開発と同時に、国際競争力をも身に付ける必要に迫られることとなったのである。
この熾烈(しれつ)な競争時代の突入に際して、トヨタとプリンスは純国産の道を、
・日産
・日野
・新三菱重工
・いすゞ
の各社は、海外メーカーの製品を取りあえずノックダウン生産することで基礎技術力の習得に努めることとなった。ノックダウン生産とは、部品を現地で組立てて完成品とする方式である。
いすゞが選択したパートナーとは

ここでいすゞが選択したパートナーは、英国のルーツ・モータース・グループだった。契約が締結されたのは1953(昭和28)年2月のことである。
ここで導入が決定された機種は、ルーツ・モータースのなかでミドルクラスセダンに相当していたヒルマンミンクス・マークVI。
本国ではオーソドックスな4ドアセダンボディに1265ccの直列4気筒サイドバルブエンジンを搭載していたファミリーセダンであったが、日本では十分に高級車の雰囲気を醸し出していたのが特徴である。
車名は戦前の1931年にデビューした初代ミンクスから数えて6代目のモデルという意味である。ノックダウン生産契約締結と同時に、いすゞは大森工場に生産ラインを建設。パーツの到着と同時に直ちに量産に入った。
国産1号車が完成したのは1953年10月のことである。ちなみにこの1号車が完成した時点でのパーツの国産化率は限りなくゼロに近く、わずかにタイヤとバッテリーのみだったといわれている。
その他の部品はボルト&ナットに至るまで全て輸入した英国製であり、ライバル遅れをとることなく、すみやかに市場投入を行うための措置だったといえよう。