日本の鉄道網をつくった重要人物! 広軌化を巡って後藤新平と対立した「原敬」の偉大さとは

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日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物として知られる原敬。そんな原は、日本の鉄道網の整備に大きな役割を果たした人物でもあった。

後藤新平との対立

後藤新平(画像:国立国会図書館)
後藤新平(画像:国立国会図書館)

 こうしたなかで、改めて鉄道広軌化を提議し、これを強力に推進しようとしたのが、1907年に第2次桂太郎内閣の逓相(後に兼任鉄道院総裁)に就任した後藤新平だ。

 後藤は初代満鉄の総裁として満鉄を標準軌(ロシアがつくった線路は標準軌よりもさらに広い1524mmで、それを日本は狭軌に改修して使っていた)に改修し、その実績をもって日本の鉄道の広軌化を図ったのだ。

 後藤は広軌化の理由として、輸送力の強化や鉄道としての資産価値が高まることで外債募集が可能になることをあげている。後藤は国家の「積極的経営」を主張していたが、そのための手段が鉄道であった。鉄道をもとに外国から資金を集め、さらにそれを日本の発展のために使おうというのだ。

 また、後藤は日本が満州で清国軍と軍事衝突する可能性を想定していたが、そのときにも広軌化された鉄道は役に立つと考えた。なぜなら、満州にあらかじめ大きな部隊を置かなくても、日本から迅速に部隊を送り込めるからだ。

 鉄道の広軌化によって新路線の建設は遅れることになるが、後藤は軽便鉄道(軌間が1067mm未満の鉄道で軌間762mmのものが多い。黒部渓谷鉄道などが現存)を普及させることで対応するつもりだった。

 また、後藤は、第2次桂内閣の総辞職に際しても鉄道院総裁にとどまろうとするなど、鉄道院総裁の地位を「超然」的なものにし、ときの政府に左右されない継続的な鉄道政策を行おうとした。後藤は鉄道を通じて、政党の利害などから離れた国家的利益の追求を図ったのだ。

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