日本の鉄道網をつくった重要人物! 広軌化を巡って後藤新平と対立した「原敬」の偉大さとは
日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物として知られる原敬。そんな原は、日本の鉄道網の整備に大きな役割を果たした人物でもあった。
広軌化問題とは何か

2021年は明治~大正期にかけて活躍した政治家・原敬の没後100年の年だった。原は日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物として知られているが、実は日本の鉄道網の整備に大きな役割を果たした人物でもあった。
今回紹介する三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』(東京大学出版会)は、原がどのように政党を率いて、日本に政党政治を根づかせていったかについて分析した本だが、本書では1章を割いて鉄道の広軌化問題をめぐる原と後藤新平の対立をとり上げている。
鉄道の軌間(レールの間隔)は、イギリスのスティーヴンソンが考案した蒸気機関車の軌間が1435mmだったことから、これが世界的な標準となった。これを標準軌という。
ところが、明治になってつくられた日本の鉄道は、予算を節約する必要などもあり、1067mmという標準よりも狭い軌間が採用された(JR以外の私鉄にはさらにさまざまな軌間がある)。この標準よりも狭い軌間(狭軌)を、標準軌に敷き直そうというのが鉄道の広軌化問題になる。
当初、鉄道の広軌化を要求したのは陸軍だった。1887(明治20)年、陸軍は軍事輸送力強化のために鉄道の広軌化を求める建議を行うが、鉄道局の反対もあり、陸軍も明治30年代になると要求を取り下げた。これによってこの問題は終わったかにも見えた。