世界大戦の敗戦国 日本とイタリアが至高の「名作スクーター」を生み出せたワケ

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第2次世界大戦で敗戦した日本とイタリア。この2国にはある共通点があった。軍需産業を担った大企業が終戦後「スクーター」の開発製造に乗り出し、ともに成功を収めたという過去である。

軍需を担った大企業が見つけた生き残り策

1952年型ラビットS-53。150cc単気筒エンジンを搭載していた軽二輪規格の1950年代のラビットの代表モデル。1940年代終わりの初期モデルに対して、主として外観の質感が大幅にアップしていた(画像:浅野良)
1952年型ラビットS-53。150cc単気筒エンジンを搭載していた軽二輪規格の1950年代のラビットの代表モデル。1940年代終わりの初期モデルに対して、主として外観の質感が大幅にアップしていた(画像:浅野良)

 1945(昭和20)年、第2次世界大戦は終結した。

 ここで敗戦国となった日本とイタリアにはある共通点があった。それは、戦時中には重要な軍需産業の担い手だった大企業が、戦後の会社生き残り策を模索する過程で「スクーター」の開発製造に乗り出し、共に大きな成功を収めたという事実である。

 ここから生まれたスクーターはいずれも名車とされ、戦勝国であったアメリカやイギリスの市場を後に席巻することとなる。

 1945年8月末。それまで「中島飛行機」と呼ばれていた日本を代表する巨大航空機メーカーは「富士産業」とその名を改めた。すでに航空機の開発製造はGHQから一切禁じられ、会社存続のためには他の道を模索しなければいけなかった。

 同年末から翌年初めに掛けての富士産業は、主要な生産工場だった太田製作所および三鷹製作所の双方で工場に残されていた金属素材を使って、自転車のフレームや建築金物などを細々と生産していただけだった。

 しかし、そんな状況下でもエンジニアたちは機械への情熱を失うことはなかったと言われている。そして残された材料と設備で何が作れるかを模索し、導き出された答えこそがスクーターだったというわけである。

 ここではまず戦前に輸入され個人の元で密かに保存されていた、アメリカ製のパウエル・スクーターがお手本とされたと言われている。

 一方、富士産業によるスクーターの試作開始からほどなくして、中京地区の名古屋でも、航空機工業の担い手だった大企業がスクーターの製作に乗り出そうとしていた。

 後に「中日本重工業」となる「名古屋機器製作所」、すなわち以前の「三菱重工名古屋製作所」である。