世界大戦の敗戦国 日本とイタリアが至高の「名作スクーター」を生み出せたワケ
続々と誕生した日本の量産型モデル
こちらも富士産業と同じく、スクーターを作るための材料と設備には事欠かなかったこともあっての決断だった。ベースとなったのは戦前型のアメリカ製サルズベリー・スクーターである。
1946(昭和46)年夏。パウエルをコピーした富士産業のスクーターは具体化を見た。
エンジンは当初の予定とは異なり、パウエルのデザインを元に新設計された135ccの4ストロークサイクルサイドバルブである。試作車の完成から数か月後、全社員による投票というオープンコンペティションの結果、「ラビット」という新しい車名も決定した。
太田製作所製の型式が「S-1」、そして三鷹製作所製の型式が「D-11」である。両者とも基本デザインは共通だったが、ディテールが少々異なっていたのはそれぞれの工場に勤務していたエンジニアの自己主張の表れである。
一方、名古屋機器製作所のサルズベリーコピーモデルは1946年の終わりに試作車が完成し、「シルバーピジョン」と命名された上で量産化に着手されることとなる。
「C-10」と呼ばれた最初のシルバーピジョンは、ラビットS-1に対して112ccとやや排気量が小さかったものの、Vベルトによる無段階変速装置を備えるなどメカニズム的には進んでいたのが特徴である。
イタリアの航空機産業も見出した活路
さてここからは、冒頭に記した通りもう一方のスクーター当事国、イタリアに目を向けることにしよう。
これは完全に偶然なのだが、イタリアにおいてスクーターの存在に注目したのも、日本と同じく大戦中は航空機産業に携わっていた巨大企業だった。その名を「Piaggio(ピアッジョ)」という。
ピアッジョは1881年に精密木工所として創業した後、20世紀を迎える頃には設備を整え鉄道車両の製造にも乗り出していた。さらに、1930年代に入ると新たに航空機製造に乗り出すとともに、第2次世界大戦前には優れた設計技術と生産設備を手に入れていた。