世界大戦の敗戦国 日本とイタリアが至高の「名作スクーター」を生み出せたワケ

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第2次世界大戦で敗戦した日本とイタリア。この2国にはある共通点があった。軍需産業を担った大企業が終戦後「スクーター」の開発製造に乗り出し、ともに成功を収めたという過去である。

強い意志「どうせ作るなら乗り物を」

 そして終戦、戦後の混乱の中で、その企業としての先行きを模索していたピアッジョが、どうせ作るなら乗り物を、という強い意志とともに開発に着手することとなったのがスクーターだった。

 偶然ではあったものの、距離を隔てた日本の航空機メーカーの経営者とエンジニアが考えたことと大差がなかったということである。

 ピアッジョのスクーターは、1945年の終わり頃に設計がスタートし、翌年春には試作車が完成した。その構造、エクステリアデザイン、メカニカルコンポーネンツのいずれも極めて先進かつ独創的であり、それまでのスクーターにはなかった独自のオーラをかもし出していた。

 基本となるフレーム構造は、従来から存在していたスチールパイプでもスチールプレスチャンネルバックボーンでもなく、航空機製造で培ったノウハウをフルに活用したスチールフルモノコック。すなわちボディを構成する外板そのものがフレームでありボディでもあったのである。

 当初は「Paparino(パパリーノ)」もしくは「MP6」と呼ばれていたピアッジョの新しいスクーターは、間もなく「Vespa(ベスパ)」というブランドネームが与えられることとなった。ちなみにVespaとは英語のWasp、すなわちスズメバチという意味であり、その特徴的なテール部分のデザインがハチのお尻に似ていた、ことがネーミングの由来だった。

 1947年から市販が開始されたベスパは瞬く間に多くのイタリア人の心を捉え、敗戦後の重い空気を吹き飛ばすべく、イタリア中を元気一杯に走り出すこととなったのである。

 さて、ベスパとほぼ時を同じくしてスクーターの開発に乗り出した企業がイタリアにはもうひとつ存在していた。その名は「Innocenti(イノチェンティ)」である。

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