世界大戦の敗戦国 日本とイタリアが至高の「名作スクーター」を生み出せたワケ

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第2次世界大戦で敗戦した日本とイタリア。この2国にはある共通点があった。軍需産業を担った大企業が終戦後「スクーター」の開発製造に乗り出し、ともに成功を収めたという過去である。

進駐軍の空挺用モデルを参考に

 1931年、フェルディナンド・イノチェンティによってイタリア北部のミラノに誕生したイノチェンティは、さまざまなスチールパイプ製造を生業としていた。

 スチールパイプこそはあらゆる工業製品にとってなくてはならない素材であり、1930年代の終わり頃にはまさにイタリアの重工業基盤のひとつをなす重要な企業となっていったのである。

 1945年、ドイツの敗北に伴ってミラノは連合国の解放を受けた。会社の再建に着手した経営陣が選択したのはスクーター。これもまた偶然の産物だったと言われている。イノチェンティがスクーターを生産する上で参考としたのは、進駐してきた米軍が持ち込んでいたクッシュマンの空挺用モデル53である。

 イノチェンティがこのモデルを選択したのは、その基本構造がスチールパイプを多用していたことが理由である。また開発経験がなかったエンジンについては、この時代の小排気量2ストロークサイクルでは世界最優秀との評判も高かった、ドイツのDKW RT用125ccとイギリスのビリヤスを参考にすることとなった。

 イノチェンティのスクーターは、1946年中に図面化されていた最初の計画案である「エクスペリメンタルO」をへて、翌1947年の初めに完成した第2案の「Tipo2」が本格的な量産型となった。さらに、ミラノのランブレート地域にちなんだ「Lambretta(ランブレッタ)」という新しいブランドも決まり、ついにベスパに遅れること1年で量産にこぎ着けたのである。

 なお、機能はともかくルックス的には明らかにベスパに後れを取っていたランブレッタではあったものの、1950年にはベスパ並のフルカバードボディを採用し、メカニカルコンポーネンツも新設計とした「LC」を投入して市場競争力を高めていた。

日伊両国が生み出した誇るべき名作

 日本のラビットとシルバーピジョンは、1960年代のスクーターブームが去ると市場からフェードアウトを余儀なくされた一方で、トルクコンバーターオートマチックを早い時期に採用するなどの技術的先進性は今も高く評価され、過去の生産車は残らずコレクターズアイテムとなっている。

 イタリアのベスパは今でも世界市場で高い人気を誇っているとともに、ランブレッタの過去モデルも、その多くがコレクターズアイテムとなっている。敗戦国のスクーターは紛れもなく市場での勝者だったという事実は、日本とイタリア両国にとって誇るべき事実に他ならない。

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