島原道路「2.7km延伸」だけで満足してはいけない! あなたは「島原天草長島連絡道路」という壮大な計画をご存じか
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天草五橋開通で薄れた天草と長崎との関係
こうした背景から求められる三県架橋だが、構想の域をでない理由には「九州西岸軸構想」として提唱されるほどの経済的・文化的交流の誕生に疑問があるからだ。
江戸時代の「島原の乱」は、圧政に苦しむ天草と島原の人々が蜂起した出来事として、歴史の教科書で必ず取り上げられる。しかし現代、早瀬瀬戸を挟んだ両地域の交流は極めて少ない。
現在は熊本県に属する天草地域だが島原の乱後、明治になるまでは天領となり(実際の支配は島原藩、長崎代官、日田郡代と時代によって変遷)、廃藩置県後には一時、長崎県に属していた時期もある。
その後も経済圏は長崎に属していた。平地の少ない天草では道路の整備が遅れ、長崎とを結ぶ定期航路が主要な交通機関となっていたからだ。
1899(明治32)年に九州鉄道が三角港(天草上島の対岸)まで延伸すると、天草諸島北部では熊本県側との関係が深まったが、狭い通路の多い天草下島南部では戦後まで長らく航路が重視されていた。
2006(平成18)年の合併で消滅するまで、南部が牛深市として独自に市制を施行する規模の地域だったのは、牛深~長崎航路の存在が大きかった。しかし、1966年に天草五橋が開通し、天草諸島と熊本県との間に架橋が実現したことで、この流れは大きく変わる。道路がつながったことで、経済圏は完全に熊本県へと移ったのである。
その後も、長崎県との交流を維持しようとする動きはあった。1991年には長崎と天草下島の串木野を結ぶ高速船が就航している。
1時間で長崎を結ぶ航路は観光需要も期待されたが、年間1万人の利用者予測はわずか500人程度。1995年に8億円の累積赤字を抱えて休航している。唯一長崎市と天草を直接結ぶ富岡~茂木航路は、2011年にはフェリーを止め、高速船で運行を維持したが、2013年に安田産業汽船が撤退。2014年に地元の出資で新会社を設立し維持されているが、長崎市内へ通院する人のための航路というのが唯一の存在理由だ。