江戸時代、なぜ屋台に「車輪」はなかったのか?──“動けない商い”を成立させた都市規制の正体

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江戸時代から明治時代にかけて、都市内の輸送を担った主要な動力は人力であった。そのような人力輸送を支えていたエネルギー源、自動車で例えるならばガソリンにあたるのが、交通労働者向けの屋台グルメだったのである。

内臓肉でビタミン補給

交通進化と屋台グルメの歴史。
交通進化と屋台グルメの歴史。

 1893(明治26)年の乾坤一布衣『最暗黒之東京』には、当時の人力車夫向けの屋台が列挙されている。

“おでん、煮込、大福餅、海苔巻稲荷鮨、すいとん、蕎麦ガキ、雑煮、ウデアヅキ、燒鳥、茶飯餡カケ、饂飩、五目めし、燗酒、汁粉、甘酒”

このうちの「煮込」「燒鳥」は、いずれも内臓肉を使った料理。

 東京の居酒屋で「煮込」を注文するとモツ煮が出てくるが、この内臓肉の煮込の文献上の初出は1884年の服部誠一『東京新繁昌記初編』。人力車夫向けに路上で売ったのがその始まり。

 焼鳥もやはり、下層労働者向けの屋台料理として生まれた。当初は鶏の腸などを焼いて売っていたが、明治時代終わり頃には、豚、牛、馬、その中でもとくに豚の内臓肉の串焼きを、東京では「焼鳥」とよぶようになる(近代食文化研究会『焼鳥の戦前史』)。

 内臓肉にビタミンなどの栄養が豊富に含まれていることが明らかになるのは大正時代以降だが、交通労働者たちはそれ以前から、内臓肉が体に良いことを体験的に知っていたのかもしれない。

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