江戸時代、なぜ屋台に「車輪」はなかったのか?──“動けない商い”を成立させた都市規制の正体

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江戸時代から明治時代にかけて、都市内の輸送を担った主要な動力は人力であった。そのような人力輸送を支えていたエネルギー源、自動車で例えるならばガソリンにあたるのが、交通労働者向けの屋台グルメだったのである。

交通労働者のガソリンスタンド

人力車夫向けの大福餅屋台。乾坤一布衣『最暗黒之東京』(画像:近代食文化研究会)
人力車夫向けの大福餅屋台。乾坤一布衣『最暗黒之東京』(画像:近代食文化研究会)

 人力車夫や車力、立ちん坊は体力を消耗する職業である。自動車にガソリンが必要なように、彼ら交通労働者には、エネルギー源となる食べ物が必要とされた。

 食事のためにいちいち帰宅するわけにもいかず、かといって都合の良いところに外食店があるとは限らないので、マラソンの給水所のように、路上で交通労働者にエネルギーを提供する屋台が栄えた。

 その代表格が、大福餅の屋台だ。

 江戸時代の江戸で生まれた大福餅は、もともとは焼いて提供する冬の屋台グルメであった。この大福餅屋台が、交通労働者向けのエネルギー補給所に応用されたのだ。

“真っ黒い火入れの上に鉄板を置き、大福とか三角形の餅などをちょうど食べごろに焼いていた。ここに集まる定連は、車力、馬力、小僧さん、行き交う労働者などで、ここは一息入れる憩いの場所であった。”“大福には甘餡と塩餡とがあり、どちらも二銭だったが、塩の大福はばかにでかかった。”(野口孝一『明治の銀座職人話』)

 交通労働者のエネルギー源として開発されたのが、「ばかにでかい」塩大福であった。

 塩大福といっても、東京の巣鴨商店街で名物となっている塩大福のような、上品な菓子ではない。

 餡には砂糖が入っておらず、その分浮いたコストで餅と餡の量を増やした、エネルギーと塩分補給に特化した大福なのだ。

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