日本に「戦車」は本当に必須なのか? 防衛省も認める削減方針に、なぜか「軍事オタク」が猛反発するワケ 海空優先vs感情論の衝突を考える
抽象的な話ができない

ではなぜ、このように誤謬だらけの主張を軍事オタクは振り回すのだろうか。それは
「抽象度の調節ができない」
からだ。そのため、いま進めている戦車削減について理解も受容もできない。
軍事オタクは具象(具体的で形のあるもの)から離れられない。その多くは
・模型
・カメラ
の趣味を主発点としており、そのモチーフである個別の兵器に異様に執着する。戦車と飛行機はその傾向が強い。
そのため戦車以下の兵器から離れた話はできない。戦力や防衛力といった水準の話をしているのに、出てくる兵器の名前に拘泥(こうでい。強くこだわりすぎて、柔軟に対応できなくなること)する。日本の鉄道政策や交通政策の話をしているときに
「電車ではなく気動車」
だと鬼の首をとったように指摘する。そのような鉄道オタクと同じである。
裏返しとして捨象はできない。個別の兵器から機械的な特徴を取り去り、戦力として見るといった抽象化ができない。戦車は陸上戦力の一要素にすぎず、その陸上戦力も防衛力の一要素であり、さらに防衛力も安全保障の一要素に過ぎないといった整理はできない。
実際のところ、日本の安全保障では戦車は1%の価値もない。仮に、日本の安全保障力を100パワーとしよう。そのうち日米安保が7割の70パワーを占める。つまり自衛隊以下の実力が占める価値は30パワーである。そして、その9割方、ざっと27パワーは海空自衛隊と海保の力量である。
陸自の価値は100のうちの3パワーだ。最初の消費税程度の規模でしかない。しかもその7割方は
・水陸機動団
・対空・対艦ミサイル
が負う。内陸決戦戦力の貢献は1パワー程度である。つまり、戦車の価値はコンマ1パワーもない。陸自戦力の一部分である内陸決戦戦力の、さらに一要素にすぎないからである。
だが、軍事オタクはこれを理解し、受容できない。抽象的思考を苦手とする上、戦車への執着から客観的な観察を拒絶する。
だから「それは『戦車不要論』だ」を振り回す。それにより現実を否認する。厳しい社会の現状と、
「ボクが大好きな戦車が役立たずな訳がない」
といった認識の間にある心理的矛盾を解消しようとするのである。