なぜ「面影橋」は歌になる? NSP、かぐや姫…名曲を生んだ「早稲田の風景」と「消えゆく学生街」【連載】移動と文化の交差点(10)
都市の記憶が消えゆくなか、東京さくらトラムの面影橋は今も「追憶」の象徴としてたたずむ。多くの楽曲に歌われたこの地は、学生文化とともに変遷を遂げながらも、どこか懐かしさを残す。なぜ、この橋は人々の心を掴み続けるのか――歴史、音楽、そして都市の変容を辿る。
面影橋が象徴する「追憶」の街

では、なぜ何の変哲もないコンクリート橋がこれほど多くの楽曲のモチーフとなっているのだろうか。その理由には、面影橋周辺が学生たちの集まる場所であり、そのたたずまいにノスタルジーを感じさせる要素があるからだろう。「うたは世につれ」ともいわれるが、面影橋を歌った楽曲が表現するのは、まさに「追想」や「追憶」であるといえる。
しかし、早稲田大学周辺の学生街では古書店や老舗飲食店の閉店が相次いでおり、この面影橋界隈もまた、さらに「追憶」の街へと変わりつつあるのだろう。それでも、東京ではほとんど姿を消した路面電車が今なお走り続けており、これこそが「追憶」の街の重要な象徴となっているともいえる。
面影橋は、1928(昭和3)年に王子電気軌道の鬼子母神前駅と面影橋駅間の終点として設置され、1930年に早稲田まで延伸された。その後、1942年には王子電気鉄道が東京市に買収され、面影橋も東京市電の停留場となった。そして、1943年に東京都制が施行され、面影橋は東京都電に組み込まれた。
戦後には、高田馬場駅方面に分岐する戸塚線が建設され、早稲田経由で茅場町まで至る15系統も設定された。しかし、戸塚線は1968年に廃止され、15系統は高田馬場駅前を起点に、
・面影橋
・江戸川橋
・飯田橋
・九段下
・小川町
・大手町
・茅場町
と進むルートだったが、戸塚線の廃止と同時にこの系統も消滅した。モータリゼーションが進展し、地下鉄敷設が進むなか、都電はほとんど姿を消し、残ったのは東京さくらトラムのみとなった。