路面電車が変えた東京のグルメ! 銀座デパートに「お子様ランチ」が登場するようになった理由とは?
現在、食道楽というと外食店の食べ歩きがその活動の中心となっているが、19世紀(明治30年代)までは食道楽イコール「食べ歩き」というわけではなかった。明治時代末から食べ歩きが一般的となった背景には、ある交通機関の発達があった。
明治20年代の食べ歩きと交通機関

小説『食道楽』以前にも、外食店を食べ歩くことを趣味にしていた人がいた。そのひとりが小説家の斎藤緑雨(りょくう)だ。小説家仲間の内田魯庵(ろあん)は、緑雨の食べ歩き趣味を次のように描いている。
「鳥は浜町の筑紫でなけりゃア喰えんの、天麩羅は横山町の丸新でなけりゃア駄目だのと、ツイ近所で間に合わすという事が出来なかった」
「緑雨はお抱えの俥が毎次待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だ(緑雨は自家用人力車を持っているからよいが、自分は高い金を払って人力車を雇わなければならないので、遠方への食べ歩きは金の無駄だ)」(内田魯庵『おもひ出す人々』)
裕福な家に生まれた緑雨は、お抱えの車夫が運転する自家用人力車で鳥料理屋や天ぷら屋を訪れていた。一方、自家用人力車を持たない魯庵は、わざわざお金を払って人力車を乗っていた。
当時(明治20年代)の主な交通手段は、汽車、徒歩、人力車、そして(鉄道)馬車などだった。外食店を食べ歩くためには、時間と体力を使って徒歩で行くか、お金をかけて人力車を雇うしかない、事実上二者択一の状況だった。
その頃の食べ歩きは、斎藤緑雨のように自家用人力車を持っている人でなければ難しい、ハードルの高い趣味だった。
しかし、そこに新たな交通手段が登場し、食べ歩きに革命が起こる。路面電車の整備だ。